喜美子は大阪、ちや子の元へ。懐かしい再会です。
そこにいたのは、クリスマスパーティを楽しむ子どもたちとお母ちゃんたちでした。
喜美子も武志もジュースを受け取り……。
「メリークリスマス!」
「うち、仏教やん」
武志よ、それはな。
クリスマス祝いができひん昭和家庭定番の言い訳や。そんなやりとりを見て、ちや子も笑ってしまいます。
「ほな……メリークリスマスです!」
母に言いくるめられ、グラスを持つ二人。かんぱーい!
昭和っぽい黄色いジュースや。なんやサンガリアを感じるで、そこは大阪やからな!
※みっくちゅじゅーちゅ、やな
鍵っ子を見る目の差
武志は子どもたちとすごろく遊びをしています。
喜美子は大阪のおばちゃんたちの元へ。なんでも彼女らは地域活動をしている「中淀はたらく母の会」だそうです。
大阪らしい派手な服装で、地道に署名活動をしており、集まるのは週末。現代では、オンラインをイメージする方も多いかもしれませんが、当時はもちろんそんなことありません。
彼女らの訴えている中身は、幼児保育、学童保育の拡充でした。これも今と同じだと驚いている方もいるかもしれませんけれども……そういうもんやで!
署名運動、労働組合、ストライキ――。
そういうものに断絶があるとすれば、1980年代〜90年代あたりですかね。その断絶前まで、本作は遡る。『なつぞら』もそうでした。
今の50代半ばより上あたり、バブル時代に青春を迎えた世代にとっては、おっさんおばさんのダサいものになっていき、断絶が発生するのです。
武志世代あたりの価値観は、こうなってゆく。
「署名? 運動? なんかそういうのダサいし〜」
シラケムードに突入。下火になってしまう。彼らはそういう運動がなくとも好景気で良い暮らしができたということでもある。そんな彼らはこういうフレーズに弱い傾向を感じます。
「声高な主張をされると引く」
「社会をよりよくしたいという偽善、人生啓発じみたものには鼻白んでしまう」
「楽しければいいじゃん! 政治も思想も関係ない! そういう動機こそカッコよくてトレンディ!」
「こういう若者世代、サブカルのノリを真面目なジジババ、PTAの三角メガネのおばちゃんどもは理解できないんだよね〜」
※バブリーやね
自分の頭で考え、人生で獲得した世界観だと言いたいのでしょうが、そこにバイアスはどうしたって入るもんですよ。
で、その下の世代(団塊ジュニア以下)が就職活動の頃は【好景気が終わった+労働運動壊滅】のコンボで搾取されまくるドツボに突入するんですね……。
それでもその周辺世代は、平成の苦労を見たくない傾向もある。だから、そこを描いた『半分、青い。』あたりを罵倒しまくったりするわけです。
喜美子の子ども世代全員がそういう(かつての)トレンディ業界人というわけではもちろんない。本気で変えたい熱気がある人も当然いるわけです。
作風がかなり違う朝ドラと大河ではありますが、脚本家の年代は結構近いんですね。今年大河のような例外はもちろんありますけれども。
はい、話を戻しましょう。
彼女らの口からは、共働きの苦労が語られる。子どもが大学生になれば一息つけるものの、そうでなければ苦労の真っ最中だと語られるのです。
栄子は会社が休みだから来られるとこぼす。鍵っ子を減らすべく、どうすべきか彼女らは考えています。
ここに残酷さが見えてきました。
八郎も大阪で、鍵っ子を見て驚いたものですが。残酷な対比が見えてきたな……。
八郎(と三津)の考えた「鍵っ子」救済
鍵っ子でも、家で自分の作った和食器セットで食事すれば、家族のあたたかさを思い出せるはずや。
「中淀はたらく母の会」の「鍵っ子」救済
そんなもん、和食器セットで食事しても何の解決にもならんやろ、なめとんか! 署名や、活動や、環境変えていかなあかん!
残念ながら八郎の解決策は1ミリも役に立ってなくて、清々しいほど。むろん八郎と三津がアホやということではありません。
ただ、世間知らずということは否定できないでしょう。三津は純粋培養のお嬢様ですし。
もちろん、視聴者だって八郎の和食器セットへの思いに、感動したとは思うのです。それにこれは、今までの朝ドラが掲げてきたことでもある。
八郎の和食器セットに喜美子がニコニコとうなずき、手伝う。穴窯なんてやるはずもない。
そこをキャピキャピしたナレーションで、
「こうしてハチさんときみちゃんの和食器セットは大ヒット! 鍵っ子を救ったのですぅ〜」
とでも言わせて、数週前の土曜日をしめる。ほっこりきゅんきゅんカップル萌え〜❤︎ で一丁上がりやで。
昨年のインスタントラーメン諸々の捏造がこのパターンでした。あのモデル企業の製品は、専業主婦の救世主という位置づけではありませんからね。
じゃあなんで本作はやらんのか?
100作目前後から、そういう朝ドラの掲げた嘘くさい何かに突っ込む流れを感じるで!
八郎流の解決はしない、けれども視聴者の感情にだけコミットしたやり方。これはむしろ有害で、2010年代で終わらせるべきだという何かを感じるんですよね。
朝ドラは女向けだの。大河は男向けなのに女の視点を入れるからダメになるだの言われてきました。
それは本当に女が望んだ解決策だったのでしょうか?
「可愛いおとなしい女」という、社会の薄っぺらい規範由来ではありませんか?
『ちや子の野望・団結』
ちや子は、アイ子さんは父の教え子だと紹介します。
中学校教師だった父の教え子だったそうです。その父の葬儀で会い、意気投合したとか。
ちや子は家庭環境的に教育熱心だろうとは思っていました。
納得できます。こういう設定は大事。去年の放送事故に出てきた武士の娘も、教員だったんですけれども。ヒロイン謎の英語力背景にそういう要素もあったのですが、あの作品ではそういう描写が雑そのものでした。教育が大嫌いな作り手が集結していたのでしょう。
ここで雑誌の記者と汽車をかけた「ポッポー」ジョークが入り、そのあとで会の活動を雑誌で取り上げてもらうことにしたと語られます。
壁に記事が貼ってあります。小道具担当者さんの仕事ぶりが光る。
ちや子は見開きにして欲しかったと、ちょっと残念そうではあります。記者魂がキラリ。
アイ子は悔しそうに語ります。
女は声を上げても、なかなか取り上げてもらえん。そのうえで感謝を語る。ここを会の連絡先にしてもらうほどで、応援してもらっているのだと。会の活動をまとめて本にするとちや子は野望を語ります。
「うちのことべっぴんに書いてや!」
そんな冗談を交えつつ、女たちは団結します。
※「鉄馬の女」ぽさがある
喜美子は手綱をつけられない暴れ馬なのに
そこへ、興奮しながら女性があわてて入ってきます。笹山由香里さんやで!
なんでも市会議員の時宗先生が諸滅捺印してくれたってよ。学校の先輩のつてを頼ったそうで、うちらの署名運動も効いたんちゃうの?と感極まっている女性もおります。
時宗先生を味方につけたら動くんちゃうか。そう期待をかけているのは「学童保育施設の請願書」だそうです。
そんな彼女らに、ちや子は「信楽からきた妹分」として、喜美子を紹介します。
笹山は美術館職員だから陶芸も詳しいだろうと、川原八郎の名を持ち出すと……。
「あの川原八郎!」
そう驚かれます。川原八郎が主人だと言われ、彼女も陶芸をしていると紹介され、喜美子の顔にヒビが入るような何かが見えます。
細かい演技です。絶品です。心にすっとヒビが入る瞬間を見た!
喜美子の気持ちはわかる。その川原八郎が独り立ちできたのは、誰のおかげか?
コーヒー茶碗のこと。陶芸展金賞まで、稼ぐために喜美子が働いてきたこと。喜美子だって、おまけで語れるような陶芸家ではない。コーヒー茶碗で選ばれたのは喜美子。橘の目にかない、小皿だって作り上げた。
それなのに、結局はこうなのか……。
穴窯新聞記事は、男だからしゃあない。けれども、女ですらこうなのか!
喜美子の中で、ますます熱気が高まってもおかしくはないのです。
「うん、どないしたん? あ、お腹すかへん?」
雰囲気を察知したメンバーが、空腹だということにしてまとめられていきます。武志は、回るテーブルを見たことがあるかと聞かれております。
今夜は中華や!
ちゃっちゃっと片付けて移動。
ここも、結構細かいというか。NHK大阪前作の反省かな?
昨年は日本における中華料理店の需要が無茶苦茶でして。日本の回るテーブルなんてもちろんない、普通の居酒屋で中華料理が出てきて、なんか日本料理扱いされていたっけ。
今日、喜美子たちが行く店は、神戸の華僑あたりから仕込まれた、そこそこお高い店なのでしょう。
草間宗一郎の元夫人が働くような、そういう大陸帰り日本人の始める、そんな町の中華料理屋ともまた違うとみた。
まあ、腹減るからこのへんでやめときましょうか。
八郎は茶碗を残して去る
そのころ、信楽の川原家では。
八郎が元の家に戻って、マツが驚くほど少量の道具を持っています。
「もうええの? それだけ?」
「なんやおらん時、見計らって取りに来たみたいで……」
八郎は武志と会ってはいるし、喜美子とも落ち着いたらゆっくり話をすると語ります。マツだって、あの子は穴窯をおしまいにすると気軽な見通しを言うわけですけれども……。
どうなんでしょうね。
マツには八郎を騙すつもりがあるわけはない。むしろ、慰めているのだとは思います。
けれどもマツは、止めて変わるのならそうすると百合子相手に言っているわけです。
茶碗はどうするかとマツが聞くと、八郎は持っていこうとしません。
「しもうとこか、大事にな」
「はい。すいません、失礼します。おやすみなさい」
そう去ったあと、マツはお茶碗をじっと見ています。
これも象徴的ではあるんですよね。
喜美子の心の中で闘志に火がついたような瞬間のあと、この八郎です。
大阪と信楽。
喜美子と八郎。
もう断絶がくっきりと見えてきてしまっているのです。何気ない日常に、たくさんの亀裂が入っています。
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