じゃれあう親子ですが、時間は限られている。ここでこう確認されます。
「あと、どれくらい時間あるんですか?」
「2分や」
「えっ!」
八郎は、名古屋までとうちまで少し離れているから、あと2分でここを出なければならないと言います。
地理の扱いがうまい。喜美子はパリのことを、歩いて行ける距離ではないと住田に言っておりましたが、名古屋もそう。照子が家出して川原家に来るのとは違うのです。当たり前ですが、違うのです。
そういう距離感を打ち消す言葉を、昨日のアンリは言ってくれたけれども。
すると武志が八郎に抱きつき、2分間何か話してと訴えます。
喜美子は戸惑いながらも『バラが咲いた』を小声で歌う。
何その歌。歌はええと突っ込まれつつ、歌ってしまう。
これは穴窯完成の時、マツたちお母さん合唱団が歌ってくれたものですね。
喜美子らしいと思う。
小声で歌うし、コーラス団にも入らない。そういう性格なのです。
お父ちゃんに聞きたいこと
八郎が来た理由がわかります。あの赤い大鉢を見せるのです。
武志は父の作品に敬意があるのでしょう。手を洗ってから触ります。
「わざわざ持って来てくれてありがとう」
重たいものを運んでくる。送ってくるわけじゃない。そこに父の愛があります。
子どものころな、それ置いてあったの覚えてんねん。お父ちゃんが初めて賞とった作品見たかったんや。そのうえで、見させてもらいますと手に取る。
これも複雑だ……。
顔じゃない。見た目じゃない。武志は父親に似ています。
周囲からすればいきなり目覚めたように見える、何もかも焼き尽くしかねない――そんな母親と違い、一歩一歩、地道に進んでゆく。和食器セットを作ることが楽しかった、そういう父親に似ています。
あの和食器セットも、今にして思えば切ない。
家族団欒の象徴のようでもあった。和食器セットは、その象徴ごと消えたようなものです。あの和食器セットを買った誰かが、割ってまた買おうと思っても、もう手に入らない。
「そや、これや。これが置いてあった。こんな色やったんか。そや、こんな色やった」
そう語る武志も切ない。
喜美子と結婚したい。そのために受賞する。そんな思いを込めた、真っ赤な燃えるような思いを形にしたような作品です。そんな真っ赤な愛の結果生まれた武志が、かつてあってもう見られないと思っている。
それを八郎が持ってきて、やっと見られたと見ている。その色の確認をしている。まるで両親にかつてあった愛を確認しているようでもある。
「奨励賞?」
「新人賞か」
「新人賞か。綺麗に焼けてるな」
あの頃は、こういう色は珍しい言われてなぁ。まあ、今はなんでもある。ない色はないわ。そう釉薬に日々向き合っている、親子らしい会話をします。
それから武志は、こう切り出します。
「お父ちゃんに聞きたいこと、いっぱいあんねん」
釉薬のこと。そう切り出し、視聴者が気にしていることを一気にに切り出します。
陶芸やってへんのはなぜ?
なんで信楽から京都へ去った?
なんでお母ちゃんと別れたん?
そう一気に聞く我が子に、八郎は戸惑います。
武志は自分が悪いことを聞いていると自覚した上で、こう言うのです。
先生にな、研究所の掛井先生に言われた。ええ子でおったら、ええ作品はできひん。
武志よ……。
悪ガキ次郎をホウキ手にして追いかけた母とも違う。いきなり八郎を殴った祖父とも違う。熊谷の芽ぐみや竜也に言われっぱなしになるほど、おとなしいええ子。
それが思い切って、殻を破るためにこう聞いてきた。そのことだけでもグッときてしまう。ええ子で、必要以上に受け身な武志。そんな父親そっくりな武志。
本作がすごいところは、武志の問いかけが視聴者も引っかかっていたことでもあるのです。
本作はあっさりし過ぎという批判がつきまといますが、それはこういう要素ゆえでしょう。
・むしろ伏線をロングスパンで引っ張る
・POV(視点)移動をする
・ナレーションが出しゃばらない
・時系列シャッフルが複雑
こういう要素が、批判の原因であるとは思えるのです。
昨年の脚本家は、一週で切り上げないと視聴者はついていけない旨のことを発言したとか。何を言っているのかと不快でしたが、批判を防ぐ上では名人芸だったと思います。
考察をさせずに、萌え萌え萌え、セクシー、カップリング、ほっこりきゅんきゅん――コレまみれにすれば「ネット民大歓喜!」という見出しで好評ニュースでてくるわな。
こっちはからかい半分でしたが、ほんまに「ほっこり」と「きゅんきゅん」をドラマ感想ネットニュース見出しに使っているのを見て、驚いたぐらいです。もう2020年なのに……。
神回にせよ、ロスにせよ、パワーワードにせよ、十年単位のフレーズを使いまわしててええのかな。まぁ、ネットだって高齢化しているんですけどね。
それはさておき。
「そない焦らんでもここにおるで。お父ちゃんはどこにも行かへん。おるで。話しよ、なっ?」
もういっぱい話しよ。
そう言われて、武志は感極まって泣いてしまいます。
「あかん! 泣きそうや、大人なのに、あかんわ、まずい」
泣いても誰が見る? 子どもの頃に戻っていく我が子をじっと見つめる八郎。
泣くのをこらえる子。笑顔で見守る父。
もしも、ずっとこの父子が同居していたら、こうはならなかったでしょう。敏春と竜也によって、そういう父子の距離感が見せられておりました。
そのころ、喜美子は一人台所にいるのでした。
喜美子は成功しようと、家事はこなす。もてなすために料理を作る。そういう女性です。
他の近年朝ドラにあった批判を防ぐようなできる女性ではありますが。だからこそ、圧倒的な孤独もある。そう思える立ち姿です。
不倫がなくとも奪われたもの
もうクライマックスを迎えた本作ですが、朝ドラ共演夫妻の騒動もあってか、まだあの話題がくすぶっております。
「不倫」です。
どうして本作が不倫を描かないのか? 不倫ということはなくとも、三津は奪ったものがあるとわかります。
それは釉薬ノートです。
かつて八郎は、釉薬の調合を喜美子に語っていた。弟子二人がノートを盗もうとしたほど知識があった。それを喜美子は、八郎が知らないうちに身につけてしまい、そのことに八郎は戸惑いを感じていました。
そしてそのノートは、あっさりと三津に譲られてしまっています。
三津は「めおとノート」を弟子から取り戻したけれども、釉薬ノートは手に入れてしまったことになります。
あらためて……どうして本作は不倫を描かないのか?
ノートの移動を考えてみると、わかるかもしれません。三津は夫婦から何かを持ち去ったのはそうなのです。取った側も、取られた側も、気づかないかもしれないけれど。
喜美子は自然釉の陶芸家。もうあのノートはいらない。八郎の知識もいらない。
めおとノートの顛末はひっかけで、釉薬ノートこそ破滅の象徴かもしれない。
けれども、めおとノートはまるでパンドラの箱に残った希望のようにも思えます。
八郎は、陶芸家としての道を終えたのかもしれない。
喜美子は、幸せな妻としての道を終えたのかもしれない。
けれども、この二人にはまだ何か残っている。
そういう残された何かを描く上で、不倫をモチーフの夫婦に描くと邪魔になりますよね。
このモチーフ人物からは、他の重要な点も変わっています。劇中人物名でわかりやすくまとめましょうか。
・自然釉のヒントとなるカケラを、穴窯の跡地で見つけたのは武志
→つまり、慶乃川のこと、ジョーのヒントは無関係。この変更により、喜美子が幼少期の自分の過去の中、本質から作品を見出す点が強くなった。
・八郎は陶芸家として名を成している
→夫婦ともに陶芸家としてご活躍しております。八郎らの離婚理由は上方修正、陶芸家としてのキャリアは下方修正されているのです。
・武志は、母の作風を受け継ぐ
→ところが作中では明確に決別している。「親は親、子は子」なのです。
ここまでまとめると、本作は作り手が描きたいことを突き詰めるために、変更していることは明確なのです。
そこを不倫ばかりクローズアップして、こういう理由が推察されるわけです。
・朝ドラの限界説
→一昨年と昨年。もうこれ以上語りますまい。
・あのリアル夫妻の影響
→製作期間的にありえません。
・俳優の事務所に忖度した
→NHK大阪は、今年大河の総大将であるハセヒロさんに忖度すべきだったんじゃないですかね。いろいろな意味で! 今年大河はアレのせいで不安にさせられたわ! 杞憂でほんま安心したわ。
まあ、作り手もめんどくさいだろうから、私がまとめときますわ。
「モチーフの人生から変更してはあかんのか?」
ルーツとか、国籍とか、犯罪歴とか。そこでなければええんちゃうか?
『なつぞら』だって、北海道開拓史とアニメを重ねる、女性の労働環境のこと、男性の家事育児参加を描くために、かなり変えています。
もっとフィクションの技法を、見る側も学ぶ必要がありそうです。
はい、最後にギスギスしたレビューにならないように、グッドニュースでも。
◆リアル「丸熊陶業」人気です 朝ドラ「スカーレット」舞台の信楽活況、タヌキも品薄に
ええなぁ。
信楽、ええなぁ。
盛り上がりが持続しますように。
文:武者震之助
絵:小久ヒロ
【参考】
スカーレット/公式サイト
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