なつの手がけたTVアニメ『百獣の王子サム』が、日曜夕方に放送スタート!
※モデルはこちら
咲太郎と亜矢美とともに、なつが画面を見つめます。
クレジットには「奥原なつ」の名前も!
きっと千遥にも、姉の名前は届くことでしょう。
坂場も川村屋でじっと見ています。
ここも面白いのですが、なつの情熱を帯びた顔に対して、坂場はよくわからない顔をしています。
冷静さ。真剣さ。緊張感。
そういうのがあまり感じられない。これも彼の特性でしょう。
甥っ子・ちーくんもじいちゃんも大好きだって!
十勝の柴田家でも、もちろん見ていました。
富士子はなつに電話を掛けて、感想を話しています。孫のちーくんも好きなのだとか。
ちーくんこと地平とは、照男と砂良の長男です。いい名前ですね。
富士子と剛男にとっては初孫、泰樹にとっては曽孫にあたります。大きくなりましたねえ。
富士子も髪型が変わりました。年月は確実に流れています。
なつはちーくんに会いたいと甘えています。
なつが泰樹の様子を聞くと、もう牛舎に行ったと富士子は返すのでした。
その泰樹は、戸村親子にテレビくらい買えと言っております。
菊介は、労働組合を作り、賃金をあげると……これも伏線かな。給与アップには労働組合がいいべさ。
ちなみに北海道は、歴史的に見ても労働運動が盛んな土地柄です。
これも歴史に関係がありまして。明治時代は囚人労働、それ以降も外国人労働者や違法労働である「タコ部屋」が横行していたのです。
プロレタリアート文学の小林多喜二はじめ、北海道出身の労働問題を訴えた人は多いものです。
厳しい環境に耐えていると、凍死しかねない。
だからこそ不満があればハッキリと言う。
そういう生き方は、泰樹やとよからも伝わってきますよね。
モデルと比較して、主人公なつの出身地変更は、なかなか大きいことだと思います。
ただ、そのことが作劇上プラスになって生きているからよいものです。
『わろてんか』といい、前作****といい、このあたりの変更が作為見え見えな上に、無意味でしたからね。
それはさておき。
父の悠吉は、腰が痛くて引退を考えているそうです。
そろそろ酪農もできなくなるのかなぁ。彼といい、泰樹といい、明治の男だもんな。
一通り話が終わると、富士子はさっさと電話を切ってしまいました。
孫をあやしていた剛男が、自分もなつと話したかったと文句を言うと、用事もないのに電話代がもったいないと言い切られます。
「声を聞くのが用事だべな」
とは訴えるものの、虚しいもの。富士子はやっぱり強いですね。
剛男がやっぱり弱いとは言わないでおきましょう。優しいのです。
あいつが問題を起こし、なつがリカバリする
喫茶店で、なつはモモッチと『百獣の王子サム』の感想を語り合っています。
「思ったより絵が動いていた!」
そうモモッチが言うと、なつはこう返します。
「ぎこちないなー、って……」
モモッチはなっちゃんらしいと励まします。
モノクロでなければ、色をつけたいくらいだって。嬉しい励ましですね。
なつは、猿渡がささっと描く要領の良さを褒め始めます。
モモッチは、なつのテレビチームが順調なんだね? と言うわけですが。
「そうでもないんだわ」
なつはそう語ります。
問題は……
【ジャーン、ジャーン、ジャーン!】
げえっ、坂場!
あいつでした。
アグレッシブ関西男・荒井が叫んでいます。
この荒井、服装のセンスが強烈で、見ていて楽しいものがあります。亜矢美とも違う、関西らしいセンスやで。
坂場の求めるクオリティだと、4000枚になるとか。
対して『鉄腕アトム』が1000枚と説明されるのもうまいのです。
4倍の差ともなれば、非常に困難だとわかる。こういう数値の比較って非常に大切ですよね。
****では競合製品の価格がわからないわ、家賃との対比がおかしいわ。
リサーチを面倒臭がった、あるいは間違っていたとしか思えない描写の連続でした。
しかし、そんなデータを示しても、坂場は納得できません。
「『鉄腕アトム』は個性があってこそ」
そうなんですよね。手塚治虫氏の原作ありきであります。
坂場よ……あの関西弁とシャツに一歩も引かないのか。度胸あるなぁ。いや、そもそも怖いと認識できているのかな?
ここでなつが、提案します。
まずは虎同士の乱闘シーンを見直す。
土煙を使い、もこもこした中から止め絵で面白い顔を出す。
茜はそれで喧嘩を表現するのかと感心し、猿渡も賞賛しています。
やっつけるところも、星だけで表現すると。
「手抜きというより、子供に暴力を見せたくないんです」
なつはそう語ります。
それでいて、丁寧な場面では枚数をかけて、メリハリをつける。思い切ってそういうことをしたい。
坂場にそう許可を得ようとすると、対する返答がこの調子ですわ。
「決めるのはあなたです。僕は精一杯話の内容を考えます」
ドヤァ……いや、ドヤァとしている意識は本人にもないのでしょうけれど。
これも結構、イライラする反応ではありますよね。
権限があるなら決めんかーい! そう言いたくもなるところです。
ただ、表情が乏しいんだかなんだかわからない、そんな顔からは喜びがうかがえるんですね。
彼は彼なりに、満足しているんだと思います。
クリスマスケーキ作るべ
そのころ北国ではーーそう意味ありげなナレーションが入ります。
彼の後ろ姿が映し出されます。
「ただいま」
帯広の雪月に、雪次郎が戻ってきました。
妙子が喜んでいます。
「帰るなら帰るって、知らせてくれたらいいしょ!」
それから、とよや雪之助を呼びに母が奥まで引っ込むと、雪次郎は『かもめ』のポスターを見ているのです。
脳裏に蘇るのは、蘭子の言葉。
あの人の分まで生きて欲しいという、その言葉。
被爆死した先輩と重ねていた彼女の言葉でした。
「ははははっ雪次郎! あんた帰ってきたんかー!!」
出た!
総大将・とよババアが満を持しての再登場です。
この演技がハイテンションだのなんだのそういう意見もあるようですが、総大将が陣太鼓とともに出てくるようなものでしょう。こうでないと!
「正月帰るなら、ちょっと早えんでねえか」
雪之助も喜んでいますが、どうやら少し早いようでして。雪次郎は、クリスマスにあわせたのだそうです。
そしてこう言うのです。
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運営の皆様
残っていた一件の削除を確認しました。
ありがとうございました。
運営の皆様
荒らし・嫌がらせ投稿の削除対応をしていただきありがとうございました。
ただ、まだ一件残っています。匿名で、「天陽贔屓」「ざつぞら」云々と書かれているものです。
よろしくお願いします。
ほんの2~3週間前頃は、荒らし・嫌がらせ投稿がなされれば、運営側で時を置かず素早く削除対応がなされていたのに、どういうわけか前回の第101話以降は何の対応もなく放置。
この第102話では、他者への直接的・明白な攻撃すら繰り返されていたにも関わらず、運営側は一切対応せず横暴に任せるという不可解な姿勢。
一体どうしてしまったのでしょうか。
同じ人物と思われる者が、次の第103話のコメント欄でもやりたい放題の荒らし・嫌がらせを続けています。
運営側の皆さんにとって、この『なつぞら』レビューはそんな「どうでも良いもの」なのでしょうか。
そうは思いたくないのですが。
「おおきまち」を名乗る投稿者の、他者への攻撃・嫌がらせは目に余る。
このレビューは、そもそも『なつぞら』を楽しむ趣旨で運営されているもの。読者も『なつぞら』を探求して楽しみたいから読んでいる。
その空間に、番組への嫌悪丸出しで全否定し攻撃する投稿をするのは、筆者・読者への嫌がらせに他ならない。
これは、「できていないところについて検証し、どう制作すれば良かったのかを考える」投稿とは全く異なる。
テレビ番組にどんな感想を持とうと、それは当然自由。『なつぞら』嫌いの人向けのサイト・投稿空間はいくらでもあるのだから、どうしても『なつぞら』が嫌なのなら、そこに投稿すれば良い。
それをせず、ここで筆者・読者をわざと不快にさせる投稿をする行為は、嫌がらせ以外の何物でもない。
それに、
投稿した以上は、それが見る者にどう見えるか、どんな印象を与えるかは、甘受すべき。
『なつぞら』を探求・考察する人が見る空間で、何も考えず嫌悪感を一方的に表明するだけの投稿をすれば、「読解力・想像力がない」という感想を持たれても仕方がない。
指摘した投稿者に因縁をつけ攻撃とは、言語道断。
京都アニメの火事から、なつぞらを見ていても辛かったです。
僕らの時代で、野沢雅子さんが、アニメの力のエピソードを話してくれました。
アニメの製作者さん、声優さん、ありがとう。何となくみていたけど。忘れていたけど、子供のころに見ていたアニメは、心の栄養になっていました。
(ここでコメントしていいのかな、失礼致します。)
おおきまち氏とその前の匿名氏の投稿は、単なるディスり嫌がらせですな。
読解力・想像力を欠いた投稿がジワジワ増えましたな。
「東京編はスタジオ撮影分が良くできてるのに屋外ロケがひどい手抜き」という意見が出たら、それを「東京編は手抜きばかりでレベルが低い」と曲解したり。
レビュー本文では「意味なく衣装に補色を使うのは不適切」と指摘したに過ぎないのに、「亜矢美の衣装の補色使用を指摘しないのはおかしい」と意味不明な投稿がなされたり。
今また…
「蘭子の無駄使い」「天陽しか大事にされない」…
全く意味不明。
今回の蘭子のシーンは、蘭子の真意と、予想外の雪之助の反応、去った雪之助を惜しむ、という描写であって、十分に意味のあるものでした。
「天陽しか大事にされない」…?
何ソレ? 全く意味がわかりません。
風車のシーンでバックに響く新宿の街の物音。
なつが『ヘンゼルとグレーテル』に取り組んでいた頃までは、都電の走行音が多かったですが、昭和38年の今週は、国電か私鉄電車かの、鉄道線の大きな電車の音が主体でした。
新宿駅前周辺の都電が廃止されるのは昭和45年3月。作中の時点からもう7年を切り、いよいよ末期の中でも最末期になる時期。他方、国電や私鉄電車は通勤人口の増大を背景に、運転本数も車両数も増加を続けます。制作側に、そういう時代背景も表現しようという意図があるのでしょう。
都電の電車も、前年の昭和37年限りで製作は一旦終了。今も残る荒川線向けに車体製作が再開される昭和53年まで、都電は作られません。本作新宿編の時点では、実際の新宿界隈の都電は末期の電車になっていました。
当然、当時の技術水準を反映した、首都の交通機関にふさわしいもの。
然るに、本作新宿編に登場した路面電車は、明治期に初めて東京に走った頃の電車を模したもの。昭和30年代の新宿のシーンとして全く不適合。「末期の時点なのに、最初期の電車で済まそうしている」というわけで、いかに不当であるかは、このことからも明らかです。
私は、背後に流れる街の物音や、先日の「埋められてしまっていた噴水の池」など、作品中の背景的なものに込められた制作側の意図や考えなどを想像して楽しむのが好きです。
ですので、「明治の幽霊電車」や「似ても似つかぬ新宿の街」は、何の意図も思慮もない無意味なものとしか、私には思えず、それどころか、
「金がないんだ。これでいいだろ」
「『路面電車』に違いはないだろ。どうせ電車の違いに目くじら立てるのはマニアくらい。うるさく言ってきても放っときゃいい」
「少し古そうな街のセットがあればいい。『新宿だ』と言い張れば通る」
といった、制作側の「邪な意図、ホンネ」のようなものが見えてしまい、許せなくなるのです。