誰にも取り上げられない時間
武志を寝かしつけてから、喜美子は工房へ向かいます。
そこには夫がいます。
二人きり、夫婦の時間が始まります。
これが、八郎が一番好きな時間。
もう、かつてのように、大量生産の注文は受けていない。喜美子は誰かに頼まれるのでもなく、応募するのでもなく、自由な作品作りを続けています。
八郎は本をめくりつつ、フカ先生の絵葉書を見る。あー、イライラが顔に出ているなぁ。
夜食おにぎりには顔がついたそうです。
喜美子がおにぎりの気持ちになって「痛い痛い痛い!」と言うと、八郎はしみじみと返す。
「僕な、この時間が一番好きや」
それから、あの弟子はずっと喧嘩しとった。もう弟子辞めさせてもええかな、そうこぼします。柴田さんには八郎が言うとは言うわけですが。
二人にはうちから言う。ハチさんは作品作りに専念せえ。喜美子はそう言います。
これもジョーだったらどうかと思ってしまう。あいつはなんのかんので、マツにこんなことはやらせないでしょう。
さて、個展ですが。
前回売れ残った分は売れない。50か60、また作る。五月の連休までにやると八郎は言います。
そのうえで、目玉になるような素晴らしい作品を一点か二点、新作で作る、と。
「素晴らしい作品て何やろ。どういうんのを、素晴らしいて言うんやろな」
おっ、本作はまたもすごい球を投げ始めたで!
喜美子は返します。
見てて飽きひんもんがそうなんちゃう?
ハチさんの金賞取った作品な、ずーっと見てても飽きひんねん。一時間でもに時間でも見てられる。
次の日も三時間、四時間。すばらしいなぁ、思うよ。
ここで八郎は「ほな下のやつは?」と言うわけです。
五分が限界やな。喜美子はそう返します。
それは冗談で、ハチさんかてそれはちゃうと思うやろと問いかけます。
「川原八郎ならできる」
喜美子がそう励ますと、もう一回言うてええかと前置きして言います。
「この時間が一番好きや。一日の終わりのこの時間な。喜美子と二人の。もうこの時間取り上げられたら生きていかれんかもしれない」
「誰も取りあげんよ」
そう返されるわけですが。
誰が取りあげることはできなくとも、手放すことはできる。そうなるのでしょう。
何が地獄を作るのか?
年明けから、今年も朝ドラHELLにぬかりがない本作。
喜美子と八郎の場面はピュアなようで、あらすじから危険性が漂っております。
ラストの工房のシーンはよかった。
けれども、かつてあった輝きが薄れていることは事実。
八郎が喜美子の性格や相性ではなくて、若い女性との恋愛こそが芸術性の泉だと誤解したら?
おっ?
どっかで見たような地獄が予想できますね。
こうやって、キラキラを勘違いした結果、いくつも悲劇があった。
喜美子が昔ほどキラキラして見えないとすれば、それは加齢よりも精神がすり切れているからなのですが。
八郎は殴らない。酒も飲んでいない。ちゃぶ台をひっくり返さない。怒鳴らない。
わかりやすい暴力性はないものの【ズレ】は改善するどころか巧妙に悪化しております。
じゃあ、その【ズレ】とは何でしょう?
答えは出ています。
【ズレ】のない世界とある世界
本作の【ズレ】とは何か?
『なつぞら』と比較すると見えてくるのです。
あの作品は厄介ではある。
好評意見は多いものの、主演女優への憎悪や嫉妬と、なつという人物への感情を混同したバッシングが結構あります。
ネットから感想を探って、
「どうしてなつは叩かれたのでしょう?」
と問題提起する記事を見かけます。そこは情報を精査しましょうか。
その発言者のタイムラインを辿って、主演女優バッシングをしている投稿があるのであれば、その意見は無視してよいはずなのです。
あのドラマには、こういう批判もあった。
「主人公が恵まれすぎ! いい人多すぎ!」
いや、なつは戦災孤児です。
東映動画にスタイリッシュ移籍を突きつけたイッキュウさんたちは、言われているほど善人でもない。
泰樹に至っては【抹殺パンチ】男。見ようによっては極道牧場主だ。
咲太郎も暴走ぶりが酷かった。
借金漬け。ストリップ劇場勤務。警察に捕まる。妹の上司を噴水に突き落とす。あの咲太郎のどこが善良なのかな?
彼らは善良な行動ばかりをする天使集団でしたっけ?
マコプロは、総大将であるマコが交渉なり指導なり組織のまとめをしていたからこそ、イッキュウさんや神っちが暴走してもなんとかなっていた。
なつたちはその恩恵を受けていた。福利厚生バッチリだもんね!
柴田牧場の場合、マイペースな泰樹が人付き合いのできる娘夫婦に社交を任せていたし。
咲太郎の手綱は、亜矢美と光子が握っていたからこそ。
あの世界は適材適所。人材マネジメントがピタリと綺麗にハマっていた。
だから成功するし、うまく回っているように見える。
「ヒロイン夫妻の子どもは発熱しない! ありえない!」というバッシングの仕組みもそう。彼らは発熱時の対処手段が確立されていたのです。
では『スカーレット』は?
適材適所から【ズレ】ているのです。
この世界にだって、極悪非道の人物はひとりたりともいない。
ジョーは憎めない、憎める、評価は割れる。けれども、実はそこまで悪人でもない。
私としては、敵に回したくないのはジョーより断然泰樹です。
泰樹を乱世に放り込めば真田昌幸。これはわかりきったこと。
※あいつと同じ顔の牧場主が愛されていることに、何か言いたいことがある室賀正武さん
それでもズレて、悲劇がいくつも起こるのは、適材適所でないから。何かピースがずれてしまったから。だからこそ生々しくて、突き刺さって、自分たちに似ていると安心できる。
『なつぞら』は、共感を得ようにも人材マネジメント知略が高すぎたんでしょう。
これは、意図的にそうしていると思えるのです。
年明けから後半戦、ここからはズレた人材配置を適正化する流れとみた。
その一歩が、今日踏み出されています。
それがよいか悪いか、わからないけれども。
共感と迎合の罠、そして謹賀新年
八郎は問いかけ、喜美子は答える。
何が素晴らしい作品か?
これに応じる本作の作り手は大変だ。
こういう芸術性論は気になるところですし、視聴者の神経を逆撫でしかねないとは思う。それでもここのところずっとそこに突っ込んできてはいる。
芸術論の危険性を痛感したのは『半分、青い。』でした。
あの作品で、鈴愛が芸術性の枯渇を自覚し漫画家を断念すると、その時点で叩きが圧倒的ではあった。
しかも、本職の漫画家、趣味で漫画を書いている同人作家。そういう人の激怒が半端なかった。
あれはどういうことか?
やっと理解ができてきた。
誰しも、クリエイターは迎合しますよね。
自分が本当に作りたいものを、周囲から「難解だ」「妥協しろ」と言われて曲げる。
そこを曲げるかどうかの葛藤は、なまじ経験があると生々しくて、妥協できない鈴愛はムカつく奴になるわけですよ。
「芸術性なんて捨てろ。絵のスキルを使って、星占いカットを描いて生きていけばいい。何様のつもりだ!」
と、いうわけです。
そういうパンドラの箱をあのドラマでは開けてしまった。
あのドラマの脚本家にせよ、『なつぞら』の主演にせよ。
自由で自己解放をするからこそ、憎悪を買っていると思う。
検索エンジンのせいか、彼女らのニュースが流れてくるわけですが、些細な言動にケチをつけるニュースまみれで、もううっすらとした異常性すら感じてしまいます。
どういうことだろう?
ウェブニュースは共感の溜まる場所です。
理詰めでの正しいかどうかよりも、共感に迎合すればアクセス数を稼げる。
だからどんどん低い方に流れて、ただの生意気な女の悪口だの、アナウンサーの胸の大きさがすごいだの、そういう記事が量産されてゆく。
その到達点を2010年代で見たはずです。
ヘイト本が並ぶ書店。
主張する女性を「はしたない」と叩いて溜飲を下げる自称普通の常識人。
口コミサイトの荒らし。
やらせレビュー。
芸能人がSNSで勧めるステマ騒動。
漫画家によるステマレビュー事件。
もう、2010年代にそういうものは置き去りにしましょう。
2020年の年末年始は、日本のSNSトレンドが世界と比較しておかしいと証明された機会でもあった。
共感に迎合ばかりしていると、痛い目に遭う。
そんな2020年代の到来です。
そういう私だってつらいのは同じ。こんなものアクセス数を稼げないといけないのです。
アクセス数を稼げなくなったライターは、走れない馬と同じです。馬刺し一直線や。
アクセス数を稼ぐのであれば、ガイドを横に置いてあらすじをたどり、出演者なり視聴者のSNS投稿を切った貼ったすればそれでいいでしょう。
頭なんか使わないほうがええ。
午前中からなんでウダウダドラマのこと考えんといかんのよ?
でも、それでええんか?
本作には向き合いますよ。頭使うことは嫌いじゃないから。
いつまで走れるか、全くわからん!
いつまでもあると思うなたわけ者レビューってことですよ。さんざんいつかお前なんか消されると脅されていますが、そんなこと、本人が一番よくわかっております。
では、今年もがんばりましょう!
今年もよろしくお願いします。
文:武者震之助
絵:小久ヒロ
【参考】
スカーレット/公式サイト
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