鮫島夫妻がやって来た
喜美子は助っ人を呼んでおりました。
これまた結婚した鮫島と直子だってよ。昼だけでええと言われ、直子は不満そう。夜はしんどいという気遣いはいらんと強気です。
直子は素直になれないので、煽るような態度で「お姉ちゃんかてええ歳」と言うわけですね。
夜も鮫島でええと言うと、マツがこう言います。
結婚したのに鮫島と呼んでいるってよ。
癖だとあっさり直子が言うと、「ふふふふふ!」と不気味な笑いを浮かべる鮫島。いや、この不気味さがええのよ。正門良規さんはいつも半端ないな!
「こう見えて、二人きりになるとダーリンと呼んできます」
突如出てきた“ダーリン”という言葉に、マツがピンとこない。直子は謎の布で叩き、投げ始める。なんやねんその黄色い布は?
貴美子が広げて見せます。
なんかダサくて安そうなTシャツ。一回選択すると模様が落ちる系やな。
万博グッズで一儲けしようとして、売れ残ったんやろなぁ。
ええんちゃうか。陶芸は手が汚れるから、こういう布はよう使うで。
と、笑っていられるのはここまで。八郎が入ってきます。
八郎はすっかり悲哀そのものになりつつある。川原家の団らんに入れず、暗い影をもたらす存在になりつつある。
彼がジョーのようにいばり散らし、酒飲んで浮かれるとか。
鮫島のように、明るいキャラクターでスッとこの中に入り込むとか。
信作のように、自分はアホやと笑われる位置におると理解して、そう振る舞うとか。
あるいはマツのように、暴走する配偶者を受け止めついていくだけであるとか。
不器用で、それができない。
異物になりつつある。
そこは八郎の本質だとは思う。丸熊の商品開発室でも、他の二人の世間話についていけないようなところがあった。極めてマイペースではあった。喜美子と出会って、やっと自分の居場所を見いだせた喜びはあったと思う。
けれど、喜美子はそうではなくて。そうわかっているところに、三津が入り込んで。でも、彼女は身をひいてしまう。
信楽で浮いてしまうだけでない。
八郎はどこにも居場所がない。そういう悲しい存在に思えてくるのです。
焼き討ちする大将は聞く耳を持たぬ……
八郎は工房を出て、喜美子に詰め寄ります。
「二週間焚き続ける言うんはほんまか」
「ほんまや」
どっから二週間という数字を出したのかと言われて、失敗を積み重ねた結果だと喜美子は言います。
1150度で2週間――。
具体性がそこにはある。
これが喜美子の恐ろしいところ。幼いころからそう。理詰めなんですよね。
キビキビと理詰めをするから、ジョーのようなちゃぶ台返ししかある意味対処のしようがない。
『麒麟がくる』では、斎藤利政(斎藤道三)が物的証拠である書状を持ち出し、相手を毒殺まで追い込みました。
こちらは理詰めだぞ、逃げ場はないぞ。そういう脅し。喜美子もそういうことができる。
それでも八郎は引き下がりません。
「どないなると思う? 窯が持たんで、崩れ落ちる! 焼け落ちて、火が燃え移ったらどないなる! 危険やからやめとけ」
「うちが出した答えや。やらせてもらいます」
『麒麟がくる』では、土岐頼芸が鷹を描く自分の辛さを訴えますが、やっぱり利政はガン無視を続けました。この二人もそこに突っ込んでますな。
八郎は苦しそうに絞り出します。
「前に言うたな。おんなじ陶芸家なのに、なんで気持ちわからへんのって。僕にとって喜美子は女や。陶芸家やない。ずっと男と女やった。これまでも、これからも……危ないことせんといて欲しい。やめて欲しい」
八郎はそう訴えます。名前を呼ぶ時も、初めてのキスの時も、そういうことを言っていました。
どうしてここで、男と女を持ち出したのか?
これは重要でしょう。
相手が武将だと男も女もありません。
昨年、大河を朝ドラでやったらどうこう言われていましたが、なんだか今年の朝ドラがむしろ大河に突っ込んできて、恐ろしいことになっております。
燃やすで!
朝ドラの枠ごと燃やすで!
大河の焼き討ちの前に、こっちも燃やすでぇ!
聞いて欲しい気持ち、理解して欲しい気持ち
マツが草間を呼びました。
手紙にはたして何が書かれていたのか、わかりません。
ただ、この二人は喜美子を止めない。
マツは百合子に、止めても変わらないからそうしないと微笑み語っていた。
草間も、普通ならば照子のようなお叱りをしてもよいところではある。それが彼は止めず、むしろ慶乃川の土を案内しました。
甘っちょろい?
せやろか?
これは喜美子の特性にあわせ、かつ今こそあるべき教育の姿のような気がします。
マツは昭和の古典的妻のようで、最先端の母でもあります。喜美子のため、大野家に【人妻のよろめき事件】を起こさせてまで、貯金をしていたこともある。
喜美子は草間を前にして、話を聞いてもらえるだけでも嬉しかったと、子どものように笑っていました。
自分が求めることを語り、説明して、理解してもらえた。そのことそのものがうれしい。
長女である喜美子は、家を支えるために不満を言わずに生きてきた。そんな姉の気持ちを百合子は理解しているのか、喜美子が思う様に語れるちや子を頼りにした。
荒木荘のあともそう。
フカ先生の弟子である一番さんと二番さんは、喜美子が絵のことを語っただけで、自分の学歴や賞歴を語り、彼女の口を閉ざしてしまった。
八郎もそうしなかったと、言えるのかどうか。
橘のコーヒー茶碗の時、喜美子の受けた依頼まで、彼が口出しするような姿にはちょっと違和感があったものです。
個展にせよ。何にせよ。
八郎は喜美子の助言を聞くようで聞かず、ただ自分の考えを聞いてくれる相手として存在させたようには思えてくる。
自分の考えていることを、聞いて欲しいのは喜美子も八郎も同じ。それなのに、八郎ばかりが喜美子を聞き相手にしてしまったような、そういう違和感はあった。
そしてここに至り、決定的な断絶が生じてしまった。
喜美子は、荒木荘の仲間や草間のように、自分の挑戦への気合いを聞いて欲しかったんだとは思います。
それなのに、なんでその数字なのかと詰め寄る。どうしてそうなったか説明すら聞こうとしない。自分の気持ちを押し付けてくる。
危険だという懸念も、男だの女だの、そういうことも、ぜんぶ八郎の気持ちです。
ぶつける前に、喜美子の理論を聞いてくれればここまで断絶しないとは思うのですが……マツの存在が、ここに来て残酷になってきてはいる。
どうして八郎はマツになれないのか?
これも答えは出ています。
「男と女」
マツは「健気に支える女」として称賛される。けれども、同じことを八郎がすれば「尻に敷かれる夫」と嘲笑される。
八郎は、自分は男だと訴える。これはもう悲鳴のように思えました。
男だから支えられない!
もう限界だ!
穴窯に挑めと言ったけれど、喜美子の熱にも世間の目にも耐えられない!
そういう悲しみがある。
『なつぞら』のイッキュウさんのように、妻を支えて家事育児に励む男に、八郎はなりきれなかったのです。
喜美子も、なつのように夫と歩む道は選べなかった。
八郎、ほんまにお前はジョン・スノウやで……。ただし八郎は、ジョンと違って滅びる側で。
※あの二人もこの頃は幸せだった……
何かごと燃やす挑戦と策謀
本作の離婚への経緯は、理解できないとは言われる。
前提として、極めて失礼だと言っておきます。
「わかりやすい理由がないと離婚してはいかんのか?」
これやで。
ジョーが先手を打つように、喜美子と八郎のすれ違いを「しょうもない」と評していましたね。もう予測済みやったんや! 『半分、青い。』の律の時点で、わかっとったんやろなぁ。
この離婚関連は、最近のファンダムが持つ毒を先回りしてきたと思えます。ネットで可視化され、同じことの繰り返しよ。
ファンがついたキャラクターが死ぬとか。
ファンがついたカップリングが悲惨な目に遭うとか。
そうすると、原作者の意図通りでも燃えるのよ。最悪、署名活動されるで!
それに迎合しなかった例が『ゲーム・オブ・スローンズ』。迎合してウダウダした結果が『スター・ウォーズ』だなんて評価も。
そのファンダムの象徴的なニュースをまとめてあったので、見とくで。
◆朝ドラ「スカーレット」ついに離婚へ 「なぜ別れる?」「二人ともわがまま!」急な展開にネット民怒りの声
わがまま?
なぜ?
そこは織り込み済みやろなぁ。
ものづくりがわかりにくい?
中華麺にかん水すら使わない昨年の放送事故はさておき『なつぞら』と『スカーレット』はかなり細かいで。
「描写が雑だから」なのか?
視聴者にアニメや北海道開拓史、陶芸や化学の知識がないから理解できないのか?
この区別は大事やで!
最後の視聴者の作品がええと思う?
そらその……ま、ネットオークション、フリマサイトで偽物つかまされんよう注意してな!
そうとしか言えへんで。
個人的には、NHKの考証スキルは知っているので、一昨年、昨年のような舐め腐ったものでない限り突っ込みたくないところはある。返り討ちは怖いから。
にしても……。
「伊藤健太郎さんの登場、楽しみすぎます。 声良し、首のホクロの色気、若い視聴者をも取り込みますね」(テレビウォッチ編集部)
こんなん、若い男の顔や色気しか見てへんのやな!
ダダ漏れで気恥ずかしいで!
過剰なキャラ萌え。カップル萌え。
ともかくそういうもんがあればええ――そんな流れごと、NHKとしては燃やしたいのかもしれない。
「ネット民」の声を過大評価しすぎだとは思う。
大河にしたって、歴史的考察よりも、CMのペットボトル茶の話した方が、RTもファボもアクセスも稼げるやろなぁ。それが正義になりつつあるけれども。
せやろか?
最後に、あの署名活動と反応貼っとくで。
海外では、ファンダムだのネット民だのに媚びすぎると、作品のクオリティが落ちるという流れになってきとる。
数年遅れで到達する。そういうもんは減る。
2020年、NHKもそれに気づいたんやな。
◆「ゲーム・オブ・スローンズ」も逃れられなかった、“残念な結末”という宿命
この問いに答えるうえで、ファンダムの別の要素が浮かび上がってくる。わたしたちが失望や幸福に満ちた安心感のなかで観続けるのは、イメージやショーがどうなるのか見たいからだ。はっきりさせたいのだ。
その探求は常に予想通りとはいかない。だが、そのほうがいいのかもしれない。もしかすると、思い込みを覆すような不明瞭な結果によって、わたしたちは居心地の悪さを感じるべきなのかもしれない。不安定さは必然的に、自明な状態をつくり出す。理解できないことがあってもいいのだ。
バランスボールってありますよね。
あれに座って、バランスを取るだけでも筋力が鍛えられる。
不安定で、理解できなくて、納得できない展開にして、議論を巻き起こす。
そのことそのものが、思考力を鍛えるのでは?
誰もがにっこり笑っている。
萌えたとハッシュタグをつけて語り、絵を描き、さわやかな気分になる。
それだけでは鍛えられないもの。提起できない問題がある。そう気づいた誰かがいるのでしょう。
それを朝【おばちゃんが見る、バカな女にゆるくエールを送るだけ、低レベルのもの、イケメンさえいればええ】という偏見にさらされた朝ドラでやる。
すごいことになってきました。
昨年の脚本家は、どうせおばちゃんは週を跨いだ伏線なんかわからない、適当に萌えを突っ込んでおけばよい的なことを語っていましたっけ。
ネットニュースでも、セクシー拷問だのおいで砲だの、視覚にしか訴えない萌えへの反応を切り取るニュースが、放映日の午後には光っていました。
そういうことをしていると、堕落する。そう気づいたと思えますが。
議論はむしろ望んだ通りの展開でしょう。笛を吹かれて踊るのであれば、望み通りだ。
大河のマムシのように、水を入れた盃を伏せて策を放つ。
そんな誰かの姿を見た気がするで!
文:武者震之助
絵:小久ヒロ
【参考】
スカーレット/公式サイト
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