母親が我が子のためにやつれつとか、まっとうな日常を送れなくなるとか、枕元で号泣するとか。そういうわかりやすい悲嘆がないと、責めたくなる心理があるのでしょう。
確かにこのドラマは、史実の治療と骨髄バンクの過程を省いてはおります。
けれども、だからといって責められる筋合いはないと思いますし、【被害者バッシング】を思い出してしまうところではありました。被害者や被災者が苦しみ、笑えなくなり、最低限の生活をして、暗い顔をしていないと「偽物だ!」とバッシングする心理です。
喜美子は、態度が堂々としているために誤解されがちですが、きっちりと謝っています。悪いと思った時は、スパッと認める性格です。
「患者の会」の時も、理香子にすっきりと謝っていました。キッパリと割り切る。そういうところは、むしろ社会が求める女性性より男性性を感じさせるのです。
それに、自分自身の短所、不完全なところも理解できています。
エゴ。まさしくそれです。
自分自身は味方だと思い、突き進む喜美子はカッコええ。立派です。けれどもそれが強烈過ぎて、焼かれるほどつらい思いをする周囲も出てくる。
喜美子は生きて来て、そこへ到達しました。
エゴ――自分の欠点をそう分析する喜美子はえらいと思う。最終回まで、気が抜けないドラマでした。
けれども、喜美子は態度がしおらしくない。
あぐらをかいて、ジーンズ姿で、ええアルトで淡々と語っている。ここだって、上目遣い、裏声、ベタベタした声であるとか。涙ぐんだ態度ならば、世間の受け止め方は変わるのでしょう。
世の中には、言動の中身よりも態度で判断する、特に女性が相手だとその傾向が強くなる、そういう人は多いものだと思います。
八郎はここで、ジョーと「あかまつ」で飲んだ話をします。
武志が生まれた日。うれしゅうてなあ。武志が生まれたんがうれしゅうて。おしぼりつまみに食べるところまでいったで。
そう父から聞かされ、武志は笑っていたとか。
ほんで……お母ちゃんにこういうて欲しいて。
「俺を産んでくれてありがとう。ああ、やっぱり言わんでええ! 言わんでええ、気恥ずかしい、なし、取り消しや!」
言うてしもた。そう明かす八郎。
聞いてしもた。喜美子はそう返します。
「ありがとう。また会って、話しよな」
「うん」
「次会う時は、陶芸家・十代田八郎か」
「せや。すぐ挫折して帰って来るかも」
「帰って来るな! 一生懸命やって来い」
喜美子と八郎は、そう言い合って別れてゆきます。新しい出発を果たした八郎でした。
陶芸家・川原喜美子の炎は消えない
百合子と照子が「かわはら工房」へと向かっていきます。
信作は、おにいさん(八郎)に会いに行くために、長崎まで行くってよ。どんだけ仲がええんや。
実は信作って、プレイボーイだのなんだの言われていましたが、家族と腐れ縁以外で一番執着しているのは八郎だと思うのです。課長であるとはいえ、飲み会でも孤立するのでしょう。
ずっとそんな感じやで。アリの列を見ていた頃から、信作の本質は同じや。
これは別に、林遣都さんの民放ドラマとは無関係でして。信作の理解されにくいところとして、信頼できる人間の範囲が極端に狭いということがあるかと思います。喜美子、照子、八郎もやね。
本作って、友達が少ない人物同士で集まっているドラマです。そういう陰キャ集合体だということ、もっと注目されてもええんちゃうか。
そんな信作一人旅の留守を、百合子はどうするのか。
子どもの世話をして、お義父さんとお義母さんと「サニー」やってな。次は「おかあさんコーラス」。そう今後の展望を語ります。
「ああ、ええなぁ」
照子もこれには賛成です。そして、入ってこう言います。
「家庭菜園照子でとぅー」
住田が出迎え、こう言います。
「いらっしゃーい、こんにちはー」
百合子はどうやら、家庭菜園の弟子になったようです。上手になって、赤カブもできたそうです。
「ゆりちゃんの赤カブうまいでぇ〜」
「これはうまいやろな」
喜美子は家庭菜園の出来に納得しています。
そのあと、喜美子は穴窯と向き合っています。
穴窯の前には、目覚まし時計と慶乃川の残した狸。そして、あのカケラが少し離れた場所で見守っています。
薪を穴窯に投げ入れる喜美子。
真っ赤な炎が、その目に映っています。
炎は消えない――。
燃え続け、喜美子の人生と物語は続いてゆきます。
孤高の本質、その探究は終わらない
異例の終わり方でした。
大団円をむしろ頑強に拒むような終わり方でした。
定番の、オープニングテーマをラストに持って来る演出はない。
最終週で病院のベッドに横たわる武志の場面はない。葬儀も。喜美子は涙すら流さない。
未解決のこともある。
大崎の皿も、喜美子の皿も、完成品はわからない。直子が鮫島と再会できたのか、それもわからない。鮫島と蒲田にいても、布袋とそのままでも、直子らしいとは思います。
八郎が長崎でどうなったか、そこもわからない。
真奈のこともわからない。
生きてゆくこと。生活が続いてゆくこと。そのことがある。
見たいことを放置する。
そんな野心を感じるラストです。
喜美子と八郎がよりを戻すのかとか。
ちや子と草間がどうなるのかとか。
個人的にはどうでもええわ。
くっつくくっつかないの話より、個人としてどう生きていくか。
それでええんちゃうか?
まぁ、そこが本作の理解のしにくさであり、反発されるところでもあるとは思うのです。
本作と似たようなバッシングを受けている人気シリーズはあります。
『ゲーム・オブ・スローンズ』は、署名運動まで巻き起こったほど。『スターウォーズ』も。
あの人気キャラクター同士が手に手を取り合う、そんなハッピーエンドの真逆を突っ走ってゆく。やっぱり、観客はまだまだ、男女が結婚して子どもが生まれて、王国が栄える形式を見たいんだろうとは思います。
そういう後日譚は王道でしたもんね。めでたしめでたし、ずっと仲良く暮らしましたとさ。
しかし……。
そうではない挑戦が、この時代にはあるのです。
「うちは、うちが何者かわかったで……せや、これからは自分なりのやり方で生きていくわ!」
そういう終結を迎えるものが、最近増えている。
典型例が『アナと雪の女王2』です。あれは孤高のラストで、エルサはわがままでわけのわからんやっちゃな! と叩かれてました。
自己の探究路線というエンディングが、今後のひとつの探究になるのだとは思います。
喜美子はこれから先も、炎の中にある自己の探究、未知への旅に突き進んでゆくのでしょう。
また『アナと雪の女王』に言及しますが、あの前作のエンディングは、解決のようで解決ではありませんでした。
あそこまでメキメキと自力でアーティスティックな城を氷で作るエルサ。
それが結局のところ。
「あんたの力は強すぎるで。みんなでほっこりきゅんきゅんして生きられるよう、抑えてぇな」
「せやな……」
そんな制限を前提とした、家庭の安寧に押し込められたとも言えるわけです。それはエルサが本質を拒むことでもあった。
2020年代のディズニーとしてそれでええんか?
いかんでしょ。
それが続編『2』であったとは思います。
よくわからん声に導かれ、あの力を思う存分発揮して、孤高の人生を選ぶ。あれって、家庭をぶん投げて山奥で陶器を焼き続ける職人めいた生き方になるわけでして。
自分の本質か?
それとも本質を曲げてでも、周囲との調和を選ぶのか?
別に本作がディズニーをオマージュしたというつもりはありません。製作期間的にありえません。
むしろ水橋氏が喜美子に向き合えるよう、周囲がガードをしていた形跡を感じます。
水橋氏が向き合い続けた結果、孤高のヒロイン・喜美子は生み出されていったのでしょう。
孤高の本質を持つ人を、社会が認識し、認めることをよしとする。そんな流れに向かったということです。
ハッピーエンド、大団円、ベタな感動ではない。
モヤモヤしている。難解だ。そんな展開やエンディングを持つ作品が複数生まれる理由は、そのあたりの発見と知見にあるのではないでしょうか。
強烈な本質を――望んだわけでもないのに生まれつき持ってしまった誰か。
喜美子。エルサでもいい。デナーリスでも。レイでも。
そういう誰かはその本質で周囲を傷つけてしまうこともある。
だから制限しろ、我慢しろ。そう言い続けて解決するのか? それは望ましいことなのか?
作り笑いをする彼女ではない。
己自身の本質を見出し、強い光が目に宿った彼女。そのほうが美しく素晴らしいのではないか?
そんな発見を感じるドラマでした。
大好きな作品ですが、ロスにはなりません。喜美子の世界はまだ終わらないし、失ったものよりも得られたもののほうがはるかに多い作品でした。
喜美子の人生と挑戦は続いていきます。
私も、彼女のように挑戦し続ける人生を選びたい。そう思っとったら、ロスになってる暇はないでぇ!
さぁ、いこか!
文:武者震之助
絵:小久ヒロ
【参考】
スカーレット/公式サイト
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