「父さん、クリスマスケーキ作るべ」
「どうかしたのか?」
そう問われて、雪次郎は『かもめ』のポスターをむしるように剥がすのです。
「父さん言ったべ。諦める時は、潔くあきらめろって……」
雪次郎がそう告げると、とよはこう来ました。
「セリフを忘れたんかい?」
「そったらことでねえ。もう悔いはないんだ。もう決めたのさ。俺はもう、菓子屋に戻る」
「バカでねえか! そんな中途半端なことで、菓子屋になれるか!」
雪之助はそう返します。
これもうまいんですよね。
根性なしだとか、ほれ見たことかとか、そういう上から目線でもない。
戻れるのならば、それでもいい。
そういう寛大さも感じさせます。
雪次郎はそれでもいい、そんな中途半端な人間を菓子屋として鍛えてくれと言い出すのでした。
「逃げたわけでねえ。逃げてねえ、捨ててきた!」
雪次郎はそう強く宣言するのでした。
だからクリスマスに戻ってきたのですね。
大正時代からクリスマスのケーキは、日本の定番です。菓子店の書き入れ時といえば、やはりクリスマスでしょう。
けっぱれ、雪次郎!
競争じゃない、生きるのは
雪次郎は、天陽の元へと向かいます。彼はキャンバスに向かっていました。
「搾乳の時間か?」
雪次郎が来ても、勘違いしてそう言うし。
彼がここに戻ってきたと告げても別に嬉しくねえと言うし。マイペースではあります。
それとも懐かしくて、照れているのかな。
妻・靖枝に「挨拶すっか」と言われて、雪次郎は遠慮します。
雪次郎は、倉田に挨拶したいと言い出します。
よっちゃんや番長と、酒を飲もうって、名前が出てくるだけでも嬉しい面々ですよね。
雪次郎はなつの活躍について話をふりますが、天陽の家ではまだテレビを買っていないそうです。
本作はテレビ普及に、きちんと波がありますね。
川村屋で見ていた坂場も、テレビを購入していないのかも。坂場ならありえる。
雪次郎が声優の仕事を語ると、天陽は知っていると言います。
そういう情報共有はできているんですね。
そして熱心に、なつのことを語ります。
「なっちゃんは相変わらずだ。脇目も振らずに先へ行く。なっちゃんに追いつけるかな」
「競争じゃない、生きるのは」
そんな雪次郎に、天陽はそう言います。やはりどこか賢者ぽさがあるなぁ。
彼は終始一貫しています。
腐らない。
比べない。
生きることの延長上に、絵がある。
だから兄だけが大学進学しても、嫉妬しないし、入賞スピーチも淡々としていた。
いくらで絵が売れるかとか。
誰との競争に勝つとか。
そういうこととは、隔たったところで生きているのでしょう。
そんな弟を、兄・陽平が「ずるい」と評する気持ちも理解できます。

天陽の【ずるさ】が痛感できました。
雪次郎が戻ってきたとなれば、何らかの大事件があったとみなし、根掘り葉掘り聞いても良さそうなものです。
そういうそぶりすら見せない。
淡々と受け止める。
この自然の中で生きて、息を吸って吐く様に、絵を描いてしまう。そういう生き方がそこにはあります。
ちょっとは人間ぽくなったかな、と思っていましたが、そうでもなかったような。
演じる吉沢亮さんも、道産子青年の皮を被った妖精さんぶりに、ますます磨きがかかってきました。
失恋のメリークリスマス
風車のカウンターには、蘭子がおりました。
「そう……北海道に帰ったのね。別に心から辞めろと言ったわけじゃない」
亜矢美は微笑み、こう返します。
「彼にもわかってた。わかったから辞めた……」
考えた結果、開拓者になるには演劇ではなく菓子屋なのだと。そういう結論に至ったのです。
「俺は少し残念ですけどね……」
咲太郎が、昭和男の渋みを出しつつそう言います。
自社所属の声優としてやっと売れるようになったのに、という利益問題もあるでしょうが、それだけではないのでしょう。
むしろ、そこが咲太郎の仁義ってやつよ。
咲太郎は終始一貫して、雪次郎を応援していましたからね。

逮捕されるわ、妹の就職を邪魔するわ、さっちゃんやレミ子の心を弄ぶわ。
ろくでもない男ではありますが、雪月三人衆と向き合った度胸と人情、そして仁義はあるんだ!
「だったらもうあれも剥がしたら」
蘭子は『かもめ』のポスターをさしてそう言います。
ここで亜矢美、ニヤリとしてこうきました。
「うちは思い出を捨てない店ですから。残しておきましょ」
粋だねえ。
このかぶき者は常に粋です。
そしてここで、ケーキが出てきます。
昭和らしい、素朴でノスタルジックなクリスマスケーキです。今時は見かけないタイプ。本作の料理担当者さんはいつも仕事が丁寧だなぁ。
「メリークリスマス!」
ああ、なつよーー降り積もる雪にも、やがて時間が過ぎてゆくだろう。
その先に残るのは、思い出か愛かーー来週に続けよ。
先週のラストとは違って、生真面目かつロマンチックに父が告げる中、なんだかものすごいことになりそうな来週へ!
雪次郎の失恋と夢の終わり
2週連続、道産子の恋愛模様でした。
ただし「抹殺パンチ」無双だった先週から一転して、今週は極めてシリアスです。
父のナレーションまでテンションが違います。
【夕見子の場合】
真剣さ:計測不能。夕見子は社会勉強の一環で駆け落ちしたかったのだろうか……そう突っ込みたくなるところもあります。
愛からの影響:夕見子は「結婚ごときで人生は変わらぬわ! ふはははは!」と宣言しているわけでして。結果的に、この恋愛で進路を変えるわけではないのです。
相手の気持ち:結局揺れるとうだうだしていた高山は、現実逃避したかっただけです。
【雪次郎の場合】
真剣さ:極めて真剣です。
愛からの影響:蘭子への愛あっての演劇であり、それが終われば進路も変わる。そんな愛と密着した人生です。
相手の気持ち:蘭子がどれだけ真剣であったか。恋愛感情は濃淡については解釈しようがありますが、真剣味はあります。お遊びや現実逃避に相手を巻き込まないためにも、突き放す。極めて真剣なのです。
どちらがロマンチックかと言われれば、まぁ、雪次郎ですよね。
クリスマスを絡めてきたあたりも、残酷です。愛の似合う行事にこの別離とは。
ただ、雪次郎が演劇を辞める決意が、ネガティブなものではないとわかります。
マコの場合、うっすらと才能の限界を感じていたとわかるのですが。

雪次郎は虻田に合流できたわけで、才能はあるのです。
とよの言葉を否定したのもわかります。
全てが愛ゆえとも言えるし、彼は気づいたのかもしれない。
【蘭子は自分を通して、思い出の中にある先輩を見ているだけ】
なのだと。
それは非常に残酷なことであります。
思い出の彼には勝てない。
彼の身代わりとして愛されることは、自分の人生を生きることでもない。
愛を捨てることになっても、自分なりの人生をつかむためには、菓子屋になるしかない。
そう悟ったのかもしれません。
菓子屋を継ぐというルートに、彼なりの忌避感があったかもしれないけれども、レールに乗っかったわけではなく、選んで引き返したことにはなります。
演技で培ったセンスも、菓子に革命を起こせるかもしれない。
ロマンあふれる味を追求するかもしれない。
そんな雪次郎には、やっぱり夕見子が待っているといいと思います。
男のために食事を作らない夕見子。
そしてこうだ!
「二人とも料理を作って、おいしいほうが作るのがいいでしょう!」
と、妻の提案。

こうなって、雪次郎が吹き替えを思い出して苦笑する。そうなるんじゃないですかね。
見たいぞ、それは見たいッ!
性格的にも無難でしょう。
夕見子は過去の女なんて、それはそれだと切り替えもできるはず。
「私は高山のことなぞ思い出さぬわ! 蘭子殿もどうでもよいのよ、ふははははは!」
そう笑い飛ばせる奴はそうそうおらんからのぅ……よし、やはり夕見子と雪次郎でいけっ!
と、期待しておきます。
そして来週ですが
まぁ、夕見子と雪次郎はさておき……散々引っ張りおって。
照男と天陽の結婚。
夕見子の「抹殺パンチ」。
マコの結婚。
雪次郎の失恋。
恋愛で引っ張って、いよいよなつと坂場です。
もうこれは予告編で出てきたし、いいっしょ。
人格的に難がありすぎて、公式サイトでもそう明言されている坂場。
こいつは問題外だと思っていたら、本命でした……全くわからん!
※なんでプロポーズするかのう、坂場めえええええ!
なんでも『真田丸』にしやがってネタではありますが。
武田家の血を引いているわけでもない。
秀吉と家康に喧嘩売りまくった。
そんな真田一族が、結果的に旧武田領で大名になっていた。そういうレベルの複雑怪奇さがあります。
参考 真田昌幸65年の生涯をスッキリ解説武将ジャパン坂場の無茶苦茶さ。
『半分、青い。』の律ですら、気持ち悪いという心無い評価があったというのに、こいつの場合はもう【表裏比興】。
露骨にそういう系統です。
なつとの関係にせよ、恋愛モードが高まっていくというよりも。
・坂場、その社会性獲得の過程
・なつ、坂場の世話に慣れる
そんなセラピー関係のようにすら思えます。
周囲と対立する忖度ゼロの坂場。
そんな坂場がなつの前だとそれなりに打ち解けているのは、彼としては心地よいことなのでしょう。
そういう意味で、よかったとしか言いようがありません。
なつにしたって【表裏比興】枠の泰樹ジジイにいろいろと鍛えられ、同じ枠の夕見子とわたりあい、ゆるぎない絆を持つ姉妹となった。
ああいうタイプを「素直で嘘がない、素晴らしい」と言い切る。
そういうなつだからこそ、坂場の面倒を見られるということであれば、納得です。運命的ではあります。
なつにせよ、夕見子にせよ。
どんだけじいちゃんが好きなのか、ってことでもある。まぁ、総大将だもんね。
坂場のためになつが職場に残ることも、納得できます。
万が一、なつが退社してみなさいって。
「なつさん! 仕事場に戻ってきてください、坂場さんが手に負えません!」
「誰か坂場を止めろーッ!」
「神地まで坂場に加勢しおったーーーーー!」
こうなるでしょう。
ともあれ、来週が楽しみじゃのう。
だってあの坂場ですよ、あいつがプロポーズですよ?
結構コミカルな演出になって、ナレーターの父も暴れるんじゃないでしょうか。
文:武者震之助
絵:小久ヒロ
※北海道ネタ盛り沢山のコーナーは武将ジャパンの『ゴールデンカムイ特集』へ!
運営の皆様
残っていた一件の削除を確認しました。
ありがとうございました。
運営の皆様
荒らし・嫌がらせ投稿の削除対応をしていただきありがとうございました。
ただ、まだ一件残っています。匿名で、「天陽贔屓」「ざつぞら」云々と書かれているものです。
よろしくお願いします。
ほんの2~3週間前頃は、荒らし・嫌がらせ投稿がなされれば、運営側で時を置かず素早く削除対応がなされていたのに、どういうわけか前回の第101話以降は何の対応もなく放置。
この第102話では、他者への直接的・明白な攻撃すら繰り返されていたにも関わらず、運営側は一切対応せず横暴に任せるという不可解な姿勢。
一体どうしてしまったのでしょうか。
同じ人物と思われる者が、次の第103話のコメント欄でもやりたい放題の荒らし・嫌がらせを続けています。
運営側の皆さんにとって、この『なつぞら』レビューはそんな「どうでも良いもの」なのでしょうか。
そうは思いたくないのですが。
「おおきまち」を名乗る投稿者の、他者への攻撃・嫌がらせは目に余る。
このレビューは、そもそも『なつぞら』を楽しむ趣旨で運営されているもの。読者も『なつぞら』を探求して楽しみたいから読んでいる。
その空間に、番組への嫌悪丸出しで全否定し攻撃する投稿をするのは、筆者・読者への嫌がらせに他ならない。
これは、「できていないところについて検証し、どう制作すれば良かったのかを考える」投稿とは全く異なる。
テレビ番組にどんな感想を持とうと、それは当然自由。『なつぞら』嫌いの人向けのサイト・投稿空間はいくらでもあるのだから、どうしても『なつぞら』が嫌なのなら、そこに投稿すれば良い。
それをせず、ここで筆者・読者をわざと不快にさせる投稿をする行為は、嫌がらせ以外の何物でもない。
それに、
投稿した以上は、それが見る者にどう見えるか、どんな印象を与えるかは、甘受すべき。
『なつぞら』を探求・考察する人が見る空間で、何も考えず嫌悪感を一方的に表明するだけの投稿をすれば、「読解力・想像力がない」という感想を持たれても仕方がない。
指摘した投稿者に因縁をつけ攻撃とは、言語道断。
京都アニメの火事から、なつぞらを見ていても辛かったです。
僕らの時代で、野沢雅子さんが、アニメの力のエピソードを話してくれました。
アニメの製作者さん、声優さん、ありがとう。何となくみていたけど。忘れていたけど、子供のころに見ていたアニメは、心の栄養になっていました。
(ここでコメントしていいのかな、失礼致します。)
おおきまち氏とその前の匿名氏の投稿は、単なるディスり嫌がらせですな。
読解力・想像力を欠いた投稿がジワジワ増えましたな。
「東京編はスタジオ撮影分が良くできてるのに屋外ロケがひどい手抜き」という意見が出たら、それを「東京編は手抜きばかりでレベルが低い」と曲解したり。
レビュー本文では「意味なく衣装に補色を使うのは不適切」と指摘したに過ぎないのに、「亜矢美の衣装の補色使用を指摘しないのはおかしい」と意味不明な投稿がなされたり。
今また…
「蘭子の無駄使い」「天陽しか大事にされない」…
全く意味不明。
今回の蘭子のシーンは、蘭子の真意と、予想外の雪之助の反応、去った雪之助を惜しむ、という描写であって、十分に意味のあるものでした。
「天陽しか大事にされない」…?
何ソレ? 全く意味がわかりません。
風車のシーンでバックに響く新宿の街の物音。
なつが『ヘンゼルとグレーテル』に取り組んでいた頃までは、都電の走行音が多かったですが、昭和38年の今週は、国電か私鉄電車かの、鉄道線の大きな電車の音が主体でした。
新宿駅前周辺の都電が廃止されるのは昭和45年3月。作中の時点からもう7年を切り、いよいよ末期の中でも最末期になる時期。他方、国電や私鉄電車は通勤人口の増大を背景に、運転本数も車両数も増加を続けます。制作側に、そういう時代背景も表現しようという意図があるのでしょう。
都電の電車も、前年の昭和37年限りで製作は一旦終了。今も残る荒川線向けに車体製作が再開される昭和53年まで、都電は作られません。本作新宿編の時点では、実際の新宿界隈の都電は末期の電車になっていました。
当然、当時の技術水準を反映した、首都の交通機関にふさわしいもの。
然るに、本作新宿編に登場した路面電車は、明治期に初めて東京に走った頃の電車を模したもの。昭和30年代の新宿のシーンとして全く不適合。「末期の時点なのに、最初期の電車で済まそうしている」というわけで、いかに不当であるかは、このことからも明らかです。
私は、背後に流れる街の物音や、先日の「埋められてしまっていた噴水の池」など、作品中の背景的なものに込められた制作側の意図や考えなどを想像して楽しむのが好きです。
ですので、「明治の幽霊電車」や「似ても似つかぬ新宿の街」は、何の意図も思慮もない無意味なものとしか、私には思えず、それどころか、
「金がないんだ。これでいいだろ」
「『路面電車』に違いはないだろ。どうせ電車の違いに目くじら立てるのはマニアくらい。うるさく言ってきても放っときゃいい」
「少し古そうな街のセットがあればいい。『新宿だ』と言い張れば通る」
といった、制作側の「邪な意図、ホンネ」のようなものが見えてしまい、許せなくなるのです。