イッキュウさんの不器用なハグ
さらに、ここでイッキュウさんは妻子に対して不器用なハグをします。
腕がふるふるしそうで、本当に不器用っちゃそうなんだ。これは演技でわざとこうしているのでしょう。
なつはこう突っ込みます。
「お兄ちゃんに何か言われたんでしょ?」
「別にそんなんじゃないよ!」
イッキュウさん、図星でしょ?
ロマンチックなボディタッチが得意でもなくて、夫婦が寝室に寝ているシーンも色気はなく、生活感があふれています。
咲太郎に、そういうことをしろと励まされていても、何の不思議もありません。
枕カバーをつけたりしていたもんね。
結婚前も、なんだかちょっとずれていた。
乙女ゲーや少女漫画めいた言動はできないし、しゃべり方もそういう傾向があります。
寝室のムードが、前作のアレと違うんだよなぁ。私はこちらが断・然・い・いと思いますが。
なつぞら122話 感想あらすじ視聴率(8/20)昭和にこんな男おるわけない?ハハ~ン♪※こういう系のイッキュウさんはなかったよね……?
前述の萩尾律も、このあたりは割と不器用な気配があった。
「トレンディドラマの脚本家ならお手の物でしょっ!」
という思い込みを、逆手に取った感すらあった。
NHK東京は、
【中身が残念で、しかもちょっとキモい美形を描きたいのか? 女の鈴愛も夕見子もズレているよね……?】
という疑念もあるかもしれませんが。
ある意味狙い通りだとは思いますよ。
むしろ、彼らが執拗にキモい、普通じゃないと叩かれるところまで、想定内なのでしょう。
なつは、そんな不器用なイッキュウさんを受け止められます。
「……でもありがとう」
なつがそういい、父がナレーションで説明します。
夫婦の努力。みんなの思い。そのおかげで、優ちゃんはすくすくと育ってゆく。
なつも、働く母として育っていったって。優の周囲で、誰もが育ってゆくのです。
そうかもしれない。
幼い子を社会から排除するということ。隔離するということ。
それは、周囲の大人が成長する機会も奪ってきたのかもしれない。
3年後、働く母は成長していた
スケッチに描かれた優の絵が育ち、舞台は3年後――昭和47年(1972年)へ。
優は4歳になりました。
『キックジャガー』はヒットし、おもちゃも売れているようです。
アニメグッズを作る小道具さんが、今日もいい仕事をしています。
母娘は夢中になってこのアニメを見て、お面をかぶっては真似をしています。
母が悪役なのが、お約束通りというところですね。
3歳からは保育園に通えるようになりました。
足が痛いという優の靴を直しながら、なつは送り届けます。
とはいっても、時間は6時まで。
そこから先は、めいちゃんともども茜の家で預かってもらいます。
茜も、めいちゃんと優の世話は大変だったことでしょう。
しかし、ここまで育てば子供同士で遊ぶため、余裕が出ているのかもしれません。
仕事を持ち帰りつつ、茜の家になつが引き取りに行くと、晩御飯は済ませていたと茜がいいます。
なつが恐縮すると、食費はもらっているからと茜は言います。
茜役の渡辺麻友さんも、昭和のおかあさんが出ているなぁ。うまいですよね。
うまいといえば、本作のお金の扱い方。
ベビーシッター料や、食費もきっちりと説明しています。
家事育児、いわばシャドウワークはタダでできるものだと描いた、そういうふざけた朝ドラもこの前ありましたね。
おまけに従業員の食費をケチって、手榴弾を使っての密漁騒ぎすら起こしていた。
日本人は農耕民族で草食動物だから、ジャングルでだって草を食って生きられるんだ!
そういうレベルの屁理屈ドラマだったな……。
怒らないでやってくれ、とは言うものの
なつと優が帰宅していると、優は公園で遊ぼうとします。
好奇心旺盛な子なんだな。父親に似たのかな?
なつは、幽霊が出ると言って帰ろうとします。
実は真空蹴りの作画修正を抱えており、ゆっくりもできないのです。
オバケを使って子供の帰宅等を促すのは、今の世代も変わらないでしょうね。
優は、自宅でも仕事をするなつに理解を示しています。
「キックジャガーを今日も勝たせちゃうから!」
「すごい!」
そう目を輝かせる優。子供は天使だと思えますよね。
絵本を読んで寝かしつけて欲しいとせがむ優に、なつは読んであげます。そして優が眠り、一安心……。
翌朝。
イッキュウさんも寝ています。彼の仕事も気になるところではありますが。
優は起きています。
テーブルで何かを描いています。
それは……『キックジャガー』の作画原稿の上だーッ!
なんだよ、このリアルな悪夢は!
これは辛い。仕事の原稿を放置したなつにも責任はあるとはいえ、これは辛い!
なつよ、怒るな。怒らないでやってくれ――。
父のナレーションがあまりに辛い。
そんな朝でした。
◆パスワードの誤入力で48年間iPadがロックされ大喜利ツイートが始まる
The New YorkerのライターEvan Osnosさんによると、三歳児が何度もiPadのロックを解除しようとしたためiPadが使用不可の状態になってしまったそうです。
使用不可となった時間はなんと48年です。
個人と組織
なつが働く母として成長できるのは、ナゼなのか?
彼女と周囲の就業形態も、大きな要素でしょう。
なつ、イッキュウさん、咲太郎……彼女の周囲は、勤務体系・業態が割とフレキシブルであります。
本作は労働組合ではなく、個人奮闘重視になっている。
それはその通りなのです。
このへんも意図的かもしれない。現在に近づけているのかも。
現在は労働組合が弱くなりましたからね。代わりに従来とは違う労働条件の個人奮闘が出てきてはいる。
『半分、青い。』も、主人公周辺の労働形態がわりとフレキシブルで、それゆえにシングルマザーの鈴愛が救われていた部分がありましたね。
「労働組合を矮小化する気か!」
と言いますが、2019年現在、肝心の組合機能が形骸化している以上、こういう変更もありではないですか?
労働組合のモデルが古くなっていて、今の視聴者に刺さらないことにも、原因はあるんじゃないですかね。
それを、古くした当事者およびその支援が言えた義理かというと、なかなか難しいものがあるのでは?
『半分、青い。』よりも時代背景が前という部分がありますし、そこは難しいといえばそうなのですが。
NHK東京の二作は、本当にクリティカルヒットを放ってきた。
鈴愛も、母親失格とさんざんレッテル貼りをされて、最低最悪の存在だと叩かれてきました。
そこから逃げるどころか、なつは一歩踏み込んできた感もあります。
これは個人の性格描写もそうなのです。
前作****の**さぁんだのネトゲ廃人画伯は、そうでない人が考えた天才像だと指摘してきましたが。
彼らは空気が読める。
そこがリアリティ欠如につながっている。
**さぁんに育児をさせようものなら、ガチギレしながら押し付けがましいことを言っていたことでしょう。天才を邪魔するな云々。
天使の顔をしていても、天使じゃない
そんな今日は、成長後の優のやらかしで終わりました。
優はかわいい。天使みたい。
けれども、子供が天使だけじゃない顔を持つことは、接したことがあればおわかりいただけることでしょう。
その辺の描写の不足が、朝ドラのリアリティとして失われてきたとは感じていました。
2011年下半期『カーネーション』は、よかったんですけどね。
ヒロインも、娘姉妹も、大暴れしていて。
しかし、最近の朝ドラ大半では、子供が空気を読んでいるんですよ。
グレるパターンも、不満を募らせるところも、明治だろうが昭和だろうが平成だろうが、だいたい同じ。
****教団員は空気を読めると指摘しましたが、子供ですらそうでして。
やんちゃとして描かれる時、ターゲットはいじめサンドバッグの武士の娘ばかり。
クラスでは女子をターゲットにしていて、かつそのいじめを微笑ましいものとして扱う。
いじめられたら、マウンティング仕返せばいいだけとハッパをかける。
うちの親はセレブになると言い切る。
って、もう無茶苦茶です。
まぁ、不利になったら政治家接待をすることを美談だとみなす両親の子ですからね。
整合性があるといえばそうでした。
思いがけず、あれの話をしてしまいましたが。
そうでなくて、優のやらかしは悪意は一切ないながら、深刻で洒落になっていないものがあります。
かつ、なつにも落ち度はあった。
ナレーターの父の言葉ももっともで、こういうときの叱り方ほど悩ましいものもありません。
本作の育児描写には、リアリティを感じます。
育児に向き合ってきた――そんな感覚があるのです。
脚本家・大森氏の努力を過小評価するつもりはありません。
同時に、過大評価するつもりもない。
この生々しい子供の描写。血のあたたかみすら感じるこれには、作り手が体験してきた人生が詰まっている。そう思ってしまうのです。
皆が一丸となって、作り上げてきている。
彼らの経験あってこその脚本でしょう。
そういう体制だからこそ、前述の通り労働組合より個人協力が強くなるのではないかと。
労働組合ですら男社会で、女性の問題には実はそこまで強くない。だからこその京都アニメーション設立もあるわけでして。
浜辺で子供をおぶって、カンヌお墨付き女優にわざとらしく泣かせればいい。それを母性だと言い切った。
そういうドラマには、血が全然通っていませんでした。
本作は生々しすぎて、ちょっと時々怖くなるほど。
文:武者震之助
絵:小久ヒロ
労働組合に所属していますが、組合に関する記述には同意します。同じ組合に所属していた母親が、なつの様子を見ながら「今なら育児休暇も整備されてるのにねえ」と言ってましたが、「なつは休みたいわけじゃないと思う」と返しました。社会モデルとしてとらえて制度改善を目指す動きも必要だとは思いますが、かえって個人での解決努力を軽んじられたり、「制度が整ってないから」と、とにかく一歩踏み出す勇気をそいでしまってるのじゃないかと感じることは多いです。「やってみたら何とかなる」世界もちゃんとある気がします。
正直に言うと、ここ何回かは少し退屈になっています。
⚪一緒に見ていた小学生の娘が、「ゆみこちゃんも、生まれたんだよね。見たいなー」と言っていました。その他、イッキュウさんの親族についても、言い訳でも良いから言及があった方が自然なのにと思いました。
⚪子どもをあずける間際になってためらう描写が、個人的にはあまりリアルに感じられないです。「身軽になってやっぱりせいせいした。よし頑張るぞ!」という方のほうが多いのでは?昭和は違うのでしょうか。
⚪「半分、青い」の時も思いましたが、子役の都合での年齢飛ばしは仕方ないのでしょうかね。子育てというと、入園前のイヤイヤ期がやっぱり大変。きっとその頃は、思わぬイタズラでトラブルもいろいろあったろうなと思います。逆に4歳にもなれば多少の聞き分けもあり、ドラマで描かれたような落書きなんかは卒業してくれているような気もしましたが…