スカーレット110話あらすじ感想(2/11)速度が違う車輪は壊れるしかなく

マツの編んでいた明るいピンクのセーターが出来あがりました。

喫茶「サニー」で陽子が、忠信に素敵だと見せています。

あの色でうちを探して

忠信は、季節外れだと指摘するように、確かに季節はあたたかくなるころ。ここで陽子が言うのです。

「いつかな、天国のジョーさんに、これ着て会いに行くんやて。これで探してもらえるんやて」

忠信はそれを聞き、納得しています。ジョーも喜ぶだろうと言うのです。

編んだマツの方を見ると、こっくりと眠ってしまったようです。大野夫妻は微笑ましい姿だと見守っています。

「寝てしもた」

「喋りすぎたんちゃうけ」

「よう笑てたからな」

「マツさん」

「マツさん、ふふふふふっ」

そう話しかけた陽子は、異変を察知――。

ここでオープニングが入ります。

どうしてマツは、あの色を編んだのでしょう?
あの色ならば探してもらえるということは、何か思い出があるのでしょうか。

ジョーとマツが恋に落ちたとき、あの色を着ていたとか。

駆け落ちしたとき、あの色を着ていたとか。

ジョーが贈った何かの色とか。

あの色をきっかけにして、再会できたとか。

二人だけにしかわからない、色の秘密と思い出があるのでしょう。

喜美子と結婚する前に、八郎が焼いた大鉢は燃えるような緋色でした。

感情や記憶を色で記す。記録に残すこと。そんな気遣いがこの作品にはあるようです。

公式サイトでも、インタビューする相手に好きな色を聞いています。アートセラピー要素やな。

第92回アカデミー賞で話題をさらった『パラサイト 半地下の家族』にも出てきた要素です。
クリエイターは、こういう流行を追わなあかん! 視聴者もな!

※傑作やで

こういう流れに敏感な誰かがNHKにもいる――それがわかって嬉しい限りです。その気配は感じとるで!

マツの静かな最期は、ある意味理想とも思えました。

花が枯れるようにそっと去る。理想の臨終まで入れ込む本作はすごいものを感じます。

このあと、葬儀が一切描かれないところも潔い。

昨年の生前葬と比較してください。段違いの洗練があります。

一人で堂々と生きるあの人

昭和53年(1978年)――。

喜美子の姿が映されます。

仏壇にお供えするご飯をよそっていること。そして仏壇の遺影にマツが加わったことで、何があったのかわかります。

母が亡くなって三年半が経過。

喜美子は母のいない生活に慣れました。

一人で食べるご飯にも、慣れました。

そうナレーションが説明しますが、それだけではない映像と演技の力もそこにはあります。

喜美子の慣れた仕草。これが日常だと言う淡々とした動き。静かな光景。

惨めだとか、そういうことは言わなくてよい。自立したリアルを感じます。

喜美子の生き方には疑念を投げかけられます。そりゃ、八郎さんと老いた様子もなく、ニコニコしていれば喜ぶ人はいるはずだ。

「さすが喜美子だ」

「もぉ〜八郎さぁ〜ん」

けれども、一人で大地に立って生きることが間違いなのか? そういうということでもある。

本作には、喜美子以外にもおりました。慶乃川、荒木さだ、庵堂ちや子、深野神仙、草間宗一郎、そして十代田八郎。

あるべき生き方はこうだと、決めつける方が傲慢で偏見があると私は思います。

昨年のアレでは、独身の缶詰泥棒を散々馬鹿にしていて不愉快でした。ああいうものはもう2020年代には不要でしょう。

そして喜美子は孤立しているだけでもない。

電話をとった向こうからは、十代田八郎の声が聞こえてきたのでした。

ペース配分の選択は作り手にある

動と静の切り分けが見事で、孤高を描くこのドラマからは、洗練されたNHKドラマチームの力量を感じます。

今は過渡期であるとは思います。

本作につきまとう批判があります。

「盛り上げられるところを、あっさりと描きすぎる」

そんな風に批判する方にむしろ問いかけたい。

それではあかんのか?

『真田丸』では「本能寺の変」や「関ヶ原」。

『半分、青い。』では萩尾律の離婚。そのあたりでもあった。雑で、盛り上げられないクリエイターがお粗末だという批判がされてきたものですが。

お粗末なのは、作り手ですか?

「はい、死にました。枕元で名前叫びました。お葬式です。号泣してます。ドラマ通や業界人高評価の役者が、身をふりしぼって演技してるって見た途端わかります。BGMもジャカジャカ盛り上げてます。顔芸絶好調。はい、こういうときどうネットに書けばいいかわかってますよね。神回! 号泣! ロス! めっちゃ涙止まらない! はい、正解。よくできました!」

こういう誘導をされて、お望みどおりの反応をする。そういう受け手の問題ではありませんか?

そんな離乳食みたいなドラマ、個人的にはうんざりです。

数十年前とは、視聴者の環境も、クリエイターの年代も知識も、創作や学問の進歩も違う。そういう時代の名作の名前を挙げて、比較することもあまり意味がないでしょ。

生きる力を守ること

工房には住田が来ています。喜美子が嫌だということを、強引に勧めているようです。

展示会もある。個展の話もある。先生は今年もお忙しい。

後援会会長として、美術商として、さらには住田という一人の人間として。
言いたいことがある。先生も、もう若うない。そう訴えるのです。

「若いでえ、住田さんから見ればピッチピチやでぇ!」

そう食ってかかるのは照子でした。

水を弾かぬ肌だけどええやん。これもあるあるや。おっさんが自分より遥かに若い女性を「ババア」呼ばわりするやつな。

本作も「この顔で中学生役はないわ〜」みたいなワンパターンネットニュースにうんざりされたもんやで。

住田の訴えは、通いでよいから2~3人の弟子を入れ、雑用をさせたいということでした。

喜美子は、こう見えても体が丈夫だときっぱり断ります。それは今までで、若くはないと食い下がられると、照子がピッチピチ発言を繰り返すと。

キリがないと思ったのか、工房の拭き掃除の手を止め、喜美子はこう言います。

「あんな、お客さん来んねん」

住田はそのへんのおっちゃんやないとは思っとりましたが、美術商ですね。八郎を推していた佐久間とは別人ですか。
佐久間だったら流石に節操のなさ、前言撤回ぶりが嫌らしすぎたから、納得はあります。

この喜美子の弟子を取るかどうか問題。男女の差を絡めても、おもしろいものがあります。三津のことは、とりあえず横に置きましょう。

・深野先生の前任者は、弟子に囲まれてむしろ権威を味わっている様子があった

 

・深野先生は寛大な師匠。とはいえ、喜美子には「女の子だから続かない」という偏見があった

 

・八郎は弟子がいなかったものの、清掃や雑事は妻である喜美子にやらせていた

こういう男性の師匠と、住田の言葉、そして喜美子の態度。そこに大久保のこの言葉を考えてみましょうか。

「家の仕事いうのは、生きるための基本やさかいな」

喜美子の根底には、生きるための基本を疎かにしないことこそ――それこそ原動力だという信念があると感じられます。

雑事をやらず、女はじめ周囲に任せた男どもは弱いな、馬力がないで! そう決別するような、圧倒的な力すらあってすごいと思いました。

皮肉にも、結婚前の八郎は家事は自らできていた。
結婚後、そのことをしなくなった結果、弱体化したようにも思えるのです。

男女が同じ土俵に乗ることは、対立を招く。過去の大河共演夫妻の別居報道にもからめて、そこは指摘されているところではあります。作り手も、同じ道を歩む特殊性を言い切ってはいた。

『半分、青い。』や『なつぞら』の分担体制とは違う。

体質を超えて、明確な下克上も感じる。そしてその基礎体力はどこから来たのかと問われれば、家の仕事だと言い切る。

これは保守的な視聴者にとっては、悪夢のような話だとは思う。

家の仕事をする女には、こうも潜在能力がある――。そう提示されて、反乱する気満々になる誰かが家庭内や職場内にいたら、どうするのか?

本作はデナーリス・ターガリエンの仇討ちをするかのようであり、大河を先取りしているようにすら思えるのだから、厄介です。

※喜美子、燃やしてええんやで……

NHKがストックを出してきた。

そんな反射式ストーブが燃える、寒い季節の川原家。寒いようで、燃える色は緋色なのです。

そこへ照子が大根を持参してきます。
せやな、冬は大根や。大阪で鮫島夫妻がてっちり鍋を味わっとる頃やな。

ほんで今年も阪神優勝やと期待かけとるやろ?
そのうち最高の一年がやってくるでぇ!

※バース・掛布・岡田が待っとるで

来客は十代田八郎さん

「アホや、渡しに来たもの持って帰ってしもた。ほんで引き返したところで会うた」

あとから入ってきたのは、スーツにコート姿の十代田八郎です。

「こんにちは、あっ、お久しぶりです」

「お久しぶりです」

久々に顔を合わせる、かつての夫婦です。

「手ぇ合わせに来たらしいで、お母さんに」

「お声がけせんですみませんでした。僕も仕事忙しかったんで」

そう言う八郎に、喜美子は奥だと案内します。わかりますね、と言うところが切ないのです。

本作は葬儀がないだのなんだの言われますが、弔いということをきっちりしております。

冠婚葬祭は、ただのイベントやないで。久々に再会する機会でもあるし、礼儀作法の問題です。

恩人に手を合わせに来るというのは、立派な理由。どんなにじっくり描こうと、日常における慰霊がないと説得力がありません。

戦国武将や反社会勢力は、それを時折、悪用しますが、それはさておき……。

※今年もやるかのう。冠婚葬祭謀殺ルート

仏壇前でアイテムを使うと、亡くなった夫が出てくる一昨年のNHK大阪な……。

死亡退場してまで「イケメンだから出したーい❤︎」とやらかす。どうしよもないオカルトワールド。

八郎再登場をストイックなまでに引っ張る今年と、圧倒的なレベルの差があるで!

昨年のアレで、ヒロインたちが亡父の回想や追悼をする場面ってありましたっけ? ヒロイン姉の亡霊再登場はしつこいくらいありましたけど。

ともかく、死者への敬意も何もなく、ただイージーに萌えだの、ネットニュースでバズるネタだの、探すドラマには飽きている。
いつまで『電車男』感覚でおるつもりや。

化粧の理由

このあとの喜美子と照子の会話がおもろい。問題提起的でして。

「何年ぶり? 十年、もっと経つか?」

「そやな」

照子はここで、喜美子にちょちょっと塗ったらと言い出すのです。髪の毛を直しつつ、少しはきちんとしとき、と言い出すのです。

「あっ、口紅ないのん?」

今から塗れ! そう主張する照子。
喜美子は、手を合わせて戻ったら唇真っ赤っかってなんやねんと否定的です。

照子は、同窓会ではやたらめったら塗っとると返す。

「これは同窓会か?」

「ちゃうで」

「そやな……」

黙り込む照子です。いや〜、今朝も強いな!

これやで。

士は己れを知る者のために死し、女は己れをよろこぶ者のために容る
【意訳】男っちゅうもんは、自分を知ってくれるモンのために命を捨てるもんや。女は、自分を喜ぶモンのために身だしなみを整えるもんやで

はい、これで終わるで。

「そんなん『史記』やん! 昭和どころやないで、一体何世紀の話しとんねん!」

古典は世の真理だという考えもある。
それも状況次第やろなぁ。『史記』を全部史実とするわけにはいかんが、真理はある。

再会するから口紅をつける。同窓会で化粧ベッタリ。そういう化粧品やカツラ広告、てんこ盛りですね。同窓会で「その歳に見えへんわぁ!」と言われるためのアンチエイジング広告、多いわな。

日本の会社や社会も「化粧は身嗜み」という。これも説明つくわな。

化粧=女と見られたい! そんな女心。

化粧をする女=男に女として評価されたい女(※ハイヒールやスカート強制、眼鏡禁止も)

これやろなぁ。仕事に関係ないやん。

日本の化粧品広告と、海外のものを見るとどんよりすることがある。
「愛される! モテる! 可愛らしく見える!」と誰かの目線を言い出す日本。

一方で海外は「好きな化粧したるでぇ!」と、自分第一なんです。

※好きなメイクしたいやん!

照子はおもろい。

八郎との離婚の際にも猛反対した。世間のこと、保守的な意識、普通の人がどう思うか。
彼女は世間に馴染むための、最大公約数を出してくる。

信作はその逆。
世間はどうでもええ、喜美子本人はどない思っとるねん。そう問いかける。百合子はその補完をする。

幼なじみ二人に引っ張られて、喜美子は揺れ動いてきた。どちらが正しいというわけでもないし、この二人が喜美子を大事に思う誠意に偽りはありません。

一人になって、それも脱しつつある。照子も、弟子については喜美子を庇う側に立っています。

八郎が戻ってくると、そそくさと帰る照子。まるで視聴者の声を代表しているようでもある。

ハグ。キス。よりを戻して!
そういうコメントは見かけました。

あの結婚前の甘ったるさは懐かしいし、よいものです。

せやけどこの二人は、別に視聴者の鑑賞物として存在してるわけやないしな。
ドラマってそういうもんではあるけれども、動物園ちゃうし、見る側の感情に過剰コミットしろと私は思いません。

そういうのは一昨年、昨年でウンザリしたんよ……。

萌え萌えすれば提灯が午後には光る。
それでええんか?
いかんでしょ。

再会

「お茶いれますね。座ててください」

喜美子はそう穏やかに言います。照子の言う通り、口紅を塗ったらドキリとしたかもしれない。

八郎は、喜美子はずっと女やと思ってきた。口紅の緋色に、女を見つけられたかもしれない。けれども、喜美子はもうそうしません。

だからこそ、そんな唇から自立する人としての喜美子を知るのでしょう。

ジョーと再会するために、明るいピンクを身につけたいと願うマツ。喜美子はそうしないのです。

向き合いながら、八郎は語り出します。

あれはいつやったか。大学の寮に電話したんです。

「何?」言われて。

「大丈夫や、心配いらん、楽しい!」

明るい顔に張りのある声。

「ほな困ったことあったらいつでも言うてな」

そう言って切る。

そっからは、僕を頼ってくることもなく、あっちゅう間に卒業や。早いな。そうしみじみと語るのでした。

「早いです。あっという間や」

喜美子はしみじみと言います。このへんも、本作の恐ろしいリアルです。

少女時代。十代。二十代。三十代。そして四十代。人間にとっての時間の流れは、年齢を重ねるにつれ恐ろしいほど高速化してゆく。それは……。
※続きは次ページへ

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