スカーレット141話あらすじ感想(3/18)真奈の強さはドコから来てる

どんなときでも、俺は俺なんで

翌朝、喜美子は真奈が忘れていったビニール傘を干しています。

これも歴史を感じるなぁ。ビニール傘の開発そのものは、1950年代末期にはありました。それが安っぽいから売れなかったのです。傘にも、使用者の好みやこだわりを反映したい需要があったのだと。

1980年代になると、その状況が一変しました。

コンビニで、真奈のように傘を忘れた客が買う。そういう需要ができました。使い捨て文化の成熟も感じます。

傘、万年筆、弁当箱、水筒、ライター、カメラ……そういうものが使い捨てになってゆきました。便利だからと、使い捨てになったわけですね。

それが環境に悪いとその流れが変わって来ているわけです。

傘、筆記具、ライターでステータス自慢?

そう言われるとピンとこなくても、腕時計だとなんとなくわかりませんか。これもスマートウォッチの隆盛で、スイスはじめ高級メーカーが大打撃を受けているそうですが。

話が逸れましたが、このビニール傘を干す光景は、この十年前であればなかったかもしれない。時代を切り取った場面だということです。

そこへ八郎が来ました。スーツではありません。休みをとって名古屋から来てくれました。

喜美子は京都の展示会の打ち合わせのため、留守にする。そこで八郎を呼び寄せたのです。

武志はもう起きて、朝から熱心に陶芸をしている。そう聞かされて、八郎はうれしそうに笑います。

工房で、八郎は武志から皿の感想を求められます。

「なんかどっかで見た光景やな……」

お父ちゃんもこうやった。そう明かされます。あったなぁ、そんな日が。

そこへやってきたのが住田。

丁寧に「おはようございます」と挨拶してから、「あの、ご病気のこと……」と口ごもる。

「あー知らんかったんや!」

「おかしいとは思ったんですわ。穴窯の予定変更する。作品をぎょうさん売り払ったり。お座りにならんで大丈夫ですか?」

住田は鋭いので、彼なりに異変を感じ、気遣っていたようです。ほんまこのドラマは、こういう平凡なようで善良な人の描き方が丁寧やで。

「お母ちゃんおったら叱られますよ。そんな腫れもんに触るような言い方」

「武志は武志なんで」

「俺は俺なんで」

そう父と子に言い切られ、住田は「京都のお土産買うてこようかな、美味しい和菓子でも」と言い出すのです。八ツ橋でも、金平糖でも、饅頭でも、買ってきましょうか。

ここに喜美子もやって来ます。

「おはようさん。なんかも欲しいもんある?」

そんな喜美子を、八郎と武志は「うん、気ぃつけて行ってらっしゃい」と告げて送り出すのでした。

武志独自の発想を

陶芸家二人は、工房へ向かいます。

八郎は、皿のイメージについて武志について聞きます。

皿の中に水たまりがあるイメージだと返す武志。

あかんことはない。けれども、独自の才能とはちゃう。そう八郎は言うのです。

「武志独自の閃きや」

「俺独自?」

お母ちゃんには独自の発想がある。掛井先生は「天賦の才」やと言うてたそうです。武志は努力型だと。

八郎もそうなのでしょう。確かにここで映る喜美子の作品には、独自のものがあります。

八郎はここから、結構きついようで願いを託したことを言う。

「皿に青い色を乗っけただけやな。これやったらお父ちゃんにもできるわ。父ちゃんができんかったことをやりぃ。僕を超えていけ。頭柔らかくせな。常に柔らかくせんとイメージ湧いてきいひん。お父ちゃんに言われたくないやろ」

このセリフも、彼の生き方を見ていればわかると言いますか。真面目すぎたところはあったのかなぁ。

我が子に超えて欲しいと呼びかけるところもいい。

親世代が、自分は天才だ、天才たる自分のアイデアを読み取って忖度しろといばり散らす。そういう親子関係はしらけるばかり。昨年そう思っていたところです。

ここで八郎は、武志の頭を柔らかくすることをスキンシップ付きで示そうとして、熱があると気づくのです。

「熱い……熱あるやん」

親子の会話に、病が入り込むこの残酷さよ。

このあと八郎は、大崎に電話して病院に連れて行くべきかどうか確認しています。武志がその受話器を奪い取り、大したことがないと言うのです。

大崎は、その声ならば大丈夫そうだと判断。熱はどのくらいと言われても、八郎も武志も検温をしていないので、わかりません。理詰めな喜美子がいたら即座に検温していそうだとは思います。

解熱剤を飲ませて安静にしていればよいと大崎から対処を聞かされる二人。もし急変したら、いつでも来てください。そう告げられ、やっと八郎は安堵しています。

けれども武志は、縁側でゴロリと寝てしまう。

八郎は「アホ! 布団で寝んとあかん」と叱り付けるものの、武志はこうです。

「お母ちゃん茶の間で寝てるで。うるさいなぁもう。お母ちゃんよりうるさいわ」

そうぶつくさ言う。八郎は解熱剤の袋を押しつけ「水、水、水!」と慌てています。

寝転がる武志の目には、真奈が忘れていった、干されている傘が目に入ります。

そこに雨が降り注ぐのでした。

どう生きて、どう日常に向き合うか

いよいよ終わりが見えてきた本作。

武志の生死がどうなるのか。それを必死に盛り上げるニュースにはちょっとうんざりしております。そんな人の生死で盛り上がらんでも……。

それに、モチーフの方の人生に敬意や理解を示すために、許可を取って作っているにも関わらず、こういうことを自らの善良な心であるかのようにいう人も出てくるわけです。

「こんなんドラマにしおって、ヒロインもモチーフの方が心配やわ。そっとして欲しい話を蒸し返されて、年齢も年齢だけに心配やわ……」

こういうことを、モチーフ本人が大々的に言えば問題です。モデル出版社から絶縁されたうえに、抗議記事を書かれた『とと姉ちゃん』という悪しき前例があります。

けれども、これを外野が言うのって、モチーフの気持ちを盾にしてドラマを叩きたい――ただ、それだけのことでしょう。

一体なんなんでしょうか。

死者のイタコになりきって「天罰じゃあああ!」と叫ぶとか。誰かの守護霊はこう言っていると出版するとか。そういう何かとさして違わないと思います。

批判するにしても、自分の頭で考えるべき。誰かの気持ちを勝手に盾にするのは卑怯でしかありません。

昨年の何かのように、史実歪曲&民族差別になりかねない、社会正義に反するものは別ですからね。批判するなということではない。

ただ、イタコはもうええから……。

で、こういうご時世だからとか、朝から辛いもん見たくないとか、そういう気持ちで死なせるなコールもあるようですが。これも世間の声をイタコしないでくださいよ。

まあええわ。それを言うたらあなぁ、ネタバレしたるわ!

NHKもう一枚の看板やで。

今年の大河。結末は明智光秀が織田信長を本能寺で討ち取るんですわ。そのあと光秀もすぐ死ぬ。

バッドエンドでしょ?
こんなバッドエンドなら見なくていい。そうなりません?

この暗いご時世。いっそ光秀と信長が手を繋いで天下取りするハッピーエンドが見たいわ〜。

アホかッ!

わかってます。そうなりますよね。
そのバッドエンドへの過程をどう描くか。何を教訓とするか。視聴者の心をどう動かすか。バッドエンドからでも得られるものがあるからこそ、ドラマの存在意義はあるわけですよ。

結末がどうあれ、テレビを通して散ってゆく命を描いて、それと向き合うことで心を鍛える。対処を考えることもできます。

住田のように気遣って、かえって怒られると笑い飛ばされるとか。

真奈のように、何がなんでも会いたいと強く思うとか。

百合子のように、目の前の大事な誰かの健康を願うとか。

信作のように、そうではない誰かのことを考えるとか。

武志だけでなくて、周囲の反応もとても大事だと思うのです。

そしてこれも本作のおそろしいところですが、命の終焉によって得られることもあるし、そのあとも周囲は生きていかねばならないことが提起されているわけです。

直子がしみじみと、ジョーの死が悲しいだけではなく解放感もあると言い切りました。

実際に、直子だけではなくマツもそうでした。ジョーの死後、「おかあさん合唱団」を楽しんでいたところはある。

真奈がこうして武志に会えるのも、門限に厳しい祖母の死あってのことでもある。

支え合って生きてゆく。そういう忠信と陽子もよいけれど、両者とも早く亡くなってしまったジョーとマツはダメなのかというと、そんなわけはない。

武志と真奈だって、それはそうなのです。

真奈は強くこの先も生きていける。乗り越えていける。武志が思っているよりも強い。真奈がその後、別の誰かと結婚しようと、それはそれでよいことであるはず。

武志の結末は、ドラマを見ればわかること。

それよりも、喜美子とその周囲がどう生きて、日常に向き合うのかを見て行きたい。

文:武者震之助
絵:小久ヒロ

【参考】
スカーレット/公式サイト

 

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