『なつぞら』が終わったあと、久々に充足感を覚えていました。
それと同時に、複雑な気分を味わっていたのです。
思えば朝ドラレビューの初作品が『わろてんか』。あれはつらかった。そのあとの『半分、青い。』は楽しめたものの……その次のNHK大坂作品は思い出すのもアレでソレ……。
101作目となる『スカーレット』についても、NHK大阪はホップステップ、谷底ジャンプをやらかすのではないか?と、憂鬱でした。
くどいほど書いておりますが、2010年代のNHK大阪朝ドラは、はっきり言って意味がわからない。
『純と愛』で、はじけることに恐怖感があるのか。
『カーネーション』の挑戦を忘れたような迷走。安易かつ固い企業ものを繰り返してきた。
※個人的には好きです『純と愛』
実はそこまで朝ドラを熱心に見てはいないものの、受信料の使い方としてわけのわからん方向に突っ走っているのでは?と思っておりました。
好き嫌いは横に置いて、NHKの看板、意義を失っている。迷走。何をしているのか?
まとめるとこうなります。
京阪神出ろや。
西日本担当なのに、なんで京阪神をウロついとんねん。
実業家伝記はもうええ。受信料でいつまで企業宣伝しとんねん。
関西人縛りをしろとは言いません。けれども、まともに関西弁指導をしていないようなモンばかりで頭痛がしていた。
【バースの再来】と言われても、阪神ファンが本気では期待しないように、NHK大阪の朝ドラには何一つ期待もしていなかったわけですが……。
『スカーレット』については公式サイトを見たときから何かが違うと思えました。
メインキャストも関西出身者で固めていて、これはええんちゃうかと湧き上がるものがあった。
戸田恵梨香さんがこちらを見据えるメインビジュアルも素敵で、シュッとしてはる。わざとらしいかわい子ちゃんぶりはなくて、真っ直ぐな目。
PR動画でも、とても強そうな意思があって、これは期待できるかな? そう思ったのです。
川原喜美子は、こちらの想像以上に強いヒロインでした。
強いだけに、敵も多い人物でした。
NHK大阪だけに朝ドラ『太閤記』と書いた記憶がありますが、性格的には別の戦国大名のような。
『なつぞら』も真田昌幸顔の牧場主がうろつき、「抹殺!」と口走る乱世感がありましたが、こちらも大乱世でした。
今回の総評では、川原喜美子と本作そのものが戦った、七人の敵をあげていきたいと思います。
女かて……女やからこそ、敷居を跨げば七人の敵がおんねん!
先入観「時代は刻一刻と動いてんねん」
期待しつつ見た第一回。『カーネーション』を彷彿とさせる手堅さに、手応えを感じたものでした。
けれども、喜美子は序盤でこう言い切る。
「いつの話や。時代は刻一刻と動いてんねん」
見ればみるほど『カーネーション』がどうでもええと思える。そんな本作でした。
いや、過去の朝ドラ、ここ数年のものでもないものと比較する意味すら考えてしまう。
それが当然ではありませんか?
これは大河と朝ドラを見ていて感じたことですが、NHKには2010年代半ばに意識をアップデートさせた変革があったと感じています。
『なつぞら』と本作の比較はありがちですが、明らかに共通点がある人物が複数出てくるわけでして、テーマだけではなく、何らかのセオリー(理論)、根底にある戦略のアップデートが感じられます。
再放送が重なっていた『おしん』。いくら傑作であり伝説的だと言われようと、正直なところ今見返すと辛いものがある。それは作風の古さだけではなく、価値観の変化もありました。
100作目を超えて、2020年代にふさわしいコンテンツとするためには、アップデートが必要なのです。『なつぞら』でも考えられていたことだとは思いますが、本作はそれがより過激なかたちで出てきたと思います。
あまりに突っ走りすぎるために、振り落とされる視聴者も多かったとは思います。盤石でありながら、困惑が広がる。そんな作品でした。
そのアップデートってなんやねん?
それは今ここで書くつもりはありません。
自分の確信した手の内を書く? 嫌やわ(※実は今年大河用にまとめましたが、ややこしすぎるためお蔵入りしました)。
それよりも、大事なことがある。
こういう革新をするということは【先入観】という敵がつきまとう。本作は、常にこいつと戦い続けました。
人間の認識には限界がある。
自分が感知したくないもの。知らないものを「アホちゃうか」と言えば、それでなんとでもなるのです。
『半分、青い。』にせよ、『なつぞら』にせよ。
ヒロインの直面する不幸が視聴者の想定範囲外だと無視され、想定範囲内で自分の体験よりマシだと思えれば、叩きの材料になりました。
彼女らと比較して、喜美子は隙がない。喜美子は生々しい苦労に直面します。それゆえ叩きにくい、せいぜい序盤の中学生役に無理があると言った難癖程度のものでした。
結婚前後から、どうにもこれが狂ってゆく。
結婚後は、主に中高年男性層からの困惑が広がりました。八郎は育児に協力的で、優しい夫に見える。
これは『半分、青い。』の律に頼る鈴愛、『なつぞら』で周囲に頼るなつでも同様の叩きがありしました。その怒りの矛先は、ヒロインの「だらしなさ」に向かったわけですが、喜美子は稼ぎ、家事をこなすので、それもできなくなってゆく。
だからこそ、八郎ファンの女性層がムカつくとか、ともかくモヤモヤするからダメという、ジョーのわけわからんちゃぶ台返し状態みたいな感想が出てきました。
「あかんいうたらあかん!」
これやな。
それでもまだ、戦いはこれからや!
穴窯による離婚が明らかになると【先入観】をぶち抜いたゆえの困惑も暴発するのです。
モチーフの人生と重ね合わせ、離婚の原因は不倫だと予測されました。私もその一人です。
それが、不倫はないまま、別居していた八郎がふっと消えるように離婚すると困惑が広がります。
「なんでやねん! 意味わからんわっ!」
これも【先入観】との戦いだとは思った。それに実は既視感がありました。
『半分、青い。』の律とより子の離婚です。
あの二人は心理的な距離感があり、すれ違ってしまい、離婚に至るのだろうとは思いましたが。それなのに、こうなった。
「ナレ離婚だ!」
「手抜きだ! 雑だ!」
「ありえん、納得できるように離婚しろ!」
いいかげん、この“ナレなんとか”もいつまでやってんだという感じですけれども。
要するに、視聴者の【先入観】にそわないで描写の優先順位を変えると、おかしいとウダウダ言い出すだけの話ですね。創作者にとって、余計なお世話としか言いようがない現象だと思うわけです。
その現象を、主人公離婚でやらかす本作は、半端ないと思いました。
そうそう、本作はモチーフの人生通りにやらないという【先入観】とも戦い続けました。
モチーフの人生から変更点があることを革新だとは私は思いません。時代考証をきっちり踏まえた範囲内で変えることは、むしろありなのです。
それを言うのであれば『なつぞら』はアニメと北海道開拓史両方を扱ったがために、モデルの経歴をかなり変えています。
NHK大阪の作品では、ヒロイン夫の国籍変更というやってはいけないことも過去やらかしているのです。本作の革新的な部分は、もっと深い層にあると私は思いますが……。
離婚後も【先入観】を裏切られたがゆえの困惑は広がります。
その一例として、離婚後の八郎描写が突っ込まれていた。
ある方は、ずーっと八郎の悪口、仕事はどうしたと突っ込み続ける。
悲しい【先入観】を感じました。それって「男は仕事第一に生きるべし」という、昭和の呪いじみた価値観ゆえの話ですよね。そのせいでバースは退団帰国したんやで……。
それと離婚したら皆不幸で暗い顔をして生きていろという【先入観】もある。喜美子があっけらかんとしていることに、怒りを感じているコメントはあったもんです。知らんわ。
【先入観】の呪いは、武志の病気についてもつきまといました。
ずーっと暗い顔をしていろ。直子がすっぽんを持ち込んで食べて楽しそうなのは、けしからんとか。
【先入観】のおっとろしいところは、それを武器にして叩いてくる、自分の偏見を暴露しかねないところではないでしょうか。
レビューやコメントを読んでいるだけで、「この人はきっとこういう価値観や偏見があるんやろなぁ」と想像できることはしばしばありました。
気持ち悪くありません?
だからこそ、人は日々【先入観】と向き合い、戦い、排除した判断をせなあかんのです。
最終回まで、武志の最期が“ナレ死”と言われた本作。それで何があかんのか? そう、【先入観】と戦い続けた150回でした。
家父長制「女にも意地と誇りはあるんじゃあ〜!」
100作目の『なつぞら』は、アップデートができた作品だとは思いました。
NHK東京は、100作目に向けていろいろ考えてきたとは思います。
ジェンダー、そして家父長制へ正面きって切り込む。そういう意気込みは序盤からありました。
あのドラマは、何度も指摘してきましたが”#HeforShe”が根底にあると思えました。
女性が生きやすい社会にするためには、まず男性から変わろう。彼女のために何かしよう。
そういうテーマが、ヒロインに寄り添うナレーターの父から、ずっとありました。ありえない世界を、本物のように描いた、綺麗で生き生きとした世界でした。
101作目のNHK大阪は、もっと過激に切り込んできたで!
同年代のなつと喜美子を比較すると、後者の方がスタートは楽でした。
喜美子は、あの年代ではそこまで悲惨な境遇でもありません。父母が健在、空襲で後遺症がない時点でまだ恵まれています。
この点、なつはもちろんのこと、空襲のトラウマが残っていた直子、病死した圭介の妹よりはマシではあるのです。
じゃあ、喜美子はイージーかというと、まるでそうではない。生々しいハードモードの人生が待ち受けていました。
幼少期、その最大の原因は、父・ジョーですね。
ジョーは悪人というわけでもないし、信楽に一家が来られたのは、彼が大野忠信を戦地で担いで運んだからでもある。恩人である草間だって、ジョーが救ってはいるのです。
そういうプラスもあれば、どでかいマイナスもある。
怒ってちゃぶ台をひっくり返すわ。飢えて苦しんでいる妻子がいるのに、酒を飲んだくれるわ。
そういう背景には、貧乏な家庭に生まれた三男坊という環境もありました。加害者であると同時に被害者という、日本近代史の闇のような人物ではあるのです。
あいつが飲んだくれてばかりなのも、それしかストレス軽減ができないから。女遊びせえへんだけなんぼかマシや。つらい話やで、ほんまに。
ジョーが、ポン煎餅すら食べられない我が子を前にして、飲んだくれていること。昭和あるあるであり、人類の悲しい宿命でもありました。
現代でも、貧困家庭の支援には難しい問題があるのです。
家族単位で支援しようとして、代表者である父親に物資なり金銭を配ると、独占して妻子に渡さない。そういう腹が立つ話があるのです。
ジョーは、人類の直面するそういうカスそのものの状況を体現していました。あいつをさんざんカスと呼んだ。そこに後悔はないで。カスはカスや。
ジョーの扱いには、困りはてるものはあったと思う。
ただ、生々しかった。琵琶湖に沈めろというコメントすらあって、北村一輝さんも読んでしまったとか。
でも、ジョーは無茶苦茶で非現実的な人物ではないのです。ああいう人の話は聞いたことがある。奇妙な懐かしさすら感じました。昭和のおっさんあるあるやで。昭和の親父は尊敬されていただのいう、そういう神話もありますが。結局のところ、やはり神話なのです。
昭和のおっさんが全員あかんとは言わへんよ。ジョーは根っからの悪人でもないし、同年代の忠信は飲んだくれないし、暴力もふるいそうにないし。草間やジョージ富士川みたいな人もいるし。
ジョーという個人ではなくて【家父長制】があかんねん。倫理の問題で。
そこに飲み込まれる男。男だけではない、女もあかんのです。マツの無力感も指摘されたもんです。マツは悪人では全くないけれども、社会に立ち向かうほどの強さはなかった。
ジョーは、最低限の教育しか受けられない。受け身のマツと結婚して、妻と娘を搾取するようなことを「そういうもんや」と思って生きてしまった。そこに後悔をにじませるだけ、マシなのです。本人だって、そこはつらい。喜美子が喜んだ気持ちは美しい。そう思ったジョーは、嘘をついていません。
寛大なフカ先生すら、喜美子弟子入り当初は「女だから」長続きしないと思っていたし。
あの敏春だって「マスコットガールミッコー」扱いをして、実力ではなく話題性で喜美子を利用しようとしたし。
番頭の加山だって、給与アップ交渉をしようとした喜美子に「結婚せい」と言ってしまうし。
美術商の佐久間も、信楽窯業研究所の柴田も、八郎の妻である喜美子を「陶芸好きのおばちゃん」扱いしてしまう。
そして、よりにもよって、あれほど大事に思って結婚した八郎。
穴窯に突き進む喜美子の才能に圧倒され、陶芸家ではなく「女」という枠に押し込めようとしてくる。
モチーフの神山清子さんの受けた嫌がらせは、もっと生々しいものはあったと言います。
本作は、手加減を加えたようで、そうしていないところはあると思うのです。
ジョーも、フカ先生も、敏春も、加山も、佐久間も、柴田も、そして八郎も。
全員悪い人でもなんでもなくて、愛すべき男性なのです。それが【家父長制】に染まると、喜美子を押し込める存在になってしまう。
男性だけの問題でもないで。
女の照子ですら、穴窯へ突き進む喜美子に「目を覚ませ!」と喜美子に迫ったことがあります。
ややこしいことに、本作は女性も時には敵にまわるのです。
女を分断する力「家の中の仕事ができる女はなんでもできる」
女の味方は女や!
そう言えたらええんやけどなぁ。
せやろか?
本作の女たちのタッグは『マッドマックス 怒りのデスロード』のにおけるフュリオサと「鉄馬の女」のように熱いもんはありました。
制作チームもトップが女性で、団結して戦い抜く強さも感じました。
けれども、これもメンテナンスをし続けなければ、保てないものだという問題提起も感じます。
前述の通り、照子ですら、喜美子が離婚しそうになると世間体を考えるように促す。実はあのときは、男性である信作の方がまだ理解できていたんですよね。
喜美子も、独特の性格ゆえに、丸熊時代の食堂の女性たちとの雑談にはついていけない感じが出ていたし。
照子も、高校時代「偽りの友情」しか築けなかった。
そんなん……同性だから即座に団結できたら、苦労はせんのよ! だからこそ、団結せなあかん!
マツがそこまで頼りにならないとか。川原三姉妹もデコボコしているとか。和を乱すところはある。
そこがええとは思った!
女同士の団結を、過剰に美化するのもなんか違うとは思う。
じゃあ女同士で団結するにはどないしたらええんや? そこは、相互理解やね。
喜美子は立派な陶芸家、バリバリのキャリアを歩んだことにはなる。
じゃあ家庭菜園照子はあかんのか?
専業主婦の照子や百合子は見下してええんか?
そんなわけないやん。
ラストシーンで、照子と百合子の野菜を見たあと、穴窯に向かう喜美子には「多様性を認めたらええんやで」という、分断をかろやかに拒否する最適解を感じました。
女が団結すると、ただでさえ世の中は分断しようとしてくる。
若さ。美貌。エロス。学歴。キャリア。収入。
なんでそういうことでしょうもない分断しようとするか?
怖いんやな!
大久保は言った。
「家の中の仕事ができる女はなんでもできる」
そういう基礎力がある女同士が団結したら、いろんな岩盤をぶち抜いて、世の中を本気で変えてしまうかもしれない。
それが嫌で、しょうもない分断工作をこの世間はしてくる。そこを認識せんとあかん!
議員のセンセイになったちや子も。陶芸家の喜美子も。家庭菜園照子も。家事の達人の大久保も。「サニー」の百合子も。鮫島探して旅立った直子も。
全員が、立派に生きている、強い女性たちなのです。
そうして団結するだけで叩きにくる。そういう【女の団結阻害チーム】と本作は、制作チームもろとも戦ってきました。
本作関連のコメントには、今日もこんなのがつく。
「こんなん女ばかりのチームが作ったドラマ、俺にはわからへんよ」
「朝ドラなんて、おばちゃんの暇つぶしやろ」
おう、せやな!
笑顔でそいつらを笑いとばして、なんやびびっとるで〜と喝破して、団結せんとな!
ガシッと手を組んでもええし、ゆる〜くともええ。でも、並んで歩こうか。
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