スカーレット総評「先入観と戦い続けた150回 緋色の朝をありがとうな!」

陽キャの常識「アリの列をじっと見とった……」

本作の特徴として、友達がたくさんできない人が多いことがあります。

喜美子も。照子も。信作も。八郎も。

ここは便宜的に【陰キャ】でええかな。

喜美子は没交渉でもなく、それなりに連絡は取っていたとわかるものの、丸熊時代の同僚と話して盛り上がったりはしていない。

照子も。信作も。友人は少ないのです。

信作の場合、百合子が「人類全体が苦手」と言い切ったほど、人間関係で不器用でした。

そうでない人もいます。ここでは【陽キャ】とします。

ジョー、直子、百合子、鮫島。彼らは社交的です。おとなしいようで合唱団を楽しめるマツもそうでしょう。

スピンオフでは、信作と百合子の人間関係構築の差が、重要なポイントとして出てきていました。

これもかなり異色だと思うで!

主人公となるべき人物は、明るくリーダーシップがあって、皆をまとめあげる。そういう像がいいとされてきてはいます。

朝ドラならば『あさが来た』の演壇でスピーチするヒロインをご想像ください。

引っ込み思案であったり、ずーっと自分自身に向き合うヒロインが皆無というわけでもありませんが、少数派ではありますし、メインがここまで【隠キャ】揃いというのは面白い話です。

本人たちも「友達できひん」「話合わん」というようなことをキッパリ口にしますからね。

実は『なつぞら』も多かったけれども、職業特性もあってか、ここまで尖っていたわけではないと思います。なまじ彼らはアニメーターも多かっただけに「クリエイターだからさ」となってしまう。主婦の照子、公務員の信作とは違うわけです。

そういう友達が少ない、気の合う仲間で生きていく。それがあかんのか? 【隠キャ】にも生きる道はあんねんで。それが理解できずに「こんなんおかしいやろ!」という意見が多くて、見ているこちらですら戸惑ったもんです。

喜美子なんて、自宅ぼっち飯しているだけで「ありえへん!」と言われましたからね。何が「ありえへん」のか……。

こんな中でも、一番ミスリードされていたと思えるのは信作です。

信作が高校時代にふっきれて、13人の女とつきあったこと。それをプレイボーイ、モテモテ気取りと解釈されていました。

でも、信作は楽しそうだったか?

当初はそうでしたが、だんだんと背伸びしているのがわかるようになる。

林遣都さんだけに、美形です。そこを使えば、世間ではええもんとされているモテモテライフが手に入る。その規範に沿ってやろう! そう伊賀祖母の死をきっかけに、忍者じみた覚醒をすると。なんでやねん……。

でも、信作はモテても疲れてしんどいだけで。

アリの列を見ていたような信作は、むしろ、ようわからん好意は困惑する。じっと熱い目で見られても、反応できひん。ズレたことをしまくった結果、ハンドバッグ殴打や水掛けという災難に陥ると。

信作には、背伸びした【陰キャ】の不幸が凝縮されとったで……。しかも男だもん。

なまじ女ならば『半分、青い。』の菱本のように「モテに戸惑う」ことが理解されやすくなったとは思うのです。それがなぁ。

ありのままに変人ぶりを発揮し、「顔がいい。けどなんか近寄るとめんどくさそう……」オーラを出す。そんな『なつぞら』のイッキュウさんはその点まだマシでしたけれども、信作は、戦国時代なら七将襲撃を受けかねない、そんな不幸な人物でした。百合子がおってよかったな!

なんで信作はじめ、本作の愛すべき【隠キャ】どもが理解されんのか?

世の中まだまだ【陽キャ】の理屈で動いとんねん。

モテると疲れるで。ようしらん女に熱い目で見られて、なんや気持ち悪い……。大人数の集まる環境にいるだけでしんどいわな。

一人か信頼できる数人で、何かしているほうがエネルギーを補充できるわ。アリの列見てたい。

みんながわーっと盛り上がるイベント。そこまで興味ないで。

電話が鳴ると嫌でな。応対誰かに任せたいわ。(喜美子は住田にやらせていましたっけ)

そういう、刺激に弱く、自分なりの世界を構築したい奴らはいるわけです。

信作はアリの列や八郎との飲み会で癒しを得る。

照子は家庭菜園。

喜美子は陶芸。

静かな自分なりの楽しみを得ているのに、孤独だの、ぼっちだの、ありえへんだの。恋愛しろだの。

そういうことを言われるしんどさを、想像できひん?

して欲しいで。ドラマの感想ならまだええにせよ、現実世界で【陰キャ】迫害せんよう、そこを考えて欲しい。

こういうのは本質的で、生まれつきのもんだったりするんやで!

そこをふまえんで「普通は〜」と言われても。どういう基準で普通なのか。飲み会を誘うにせよ、相手の個性は踏まえましょうか。

別にこの個性は対立するだけじゃない。どちらが正しいというわけでもない。

相手を理解して、尊重して生きていくのがよいことなのです。

一方のやり方を正しいと押し付けることはやめればよいだけ。生産性を落とし、不幸な結果を生み出しかねません。

そう問題提起してくれた本作は最高や!

※ここでは【陽キャ】と【隠キャ】と使い分けていますが、別のもっと真面目な呼び方はあります。自分がどちらか知るだけで、もっとええ人生送れるで! 気になるなら調べてみてな。クソレビュアーは、なにぶん、この道のプロではないので、そこまで詳しくは書きません。

肩書き「陶芸家・川原喜美子です」

最初から最後まで、喜美子には自分の大きさにぴったりと合う肩書がつかなかったようにも思えます。

前半部、喜美子は中卒の女の子であることに苦しんでいたと思えます。高校進学を勧められるほど賢いのに、できない。荒木荘では、大久保からこの仕事は誰にでもできると思われて、昇給は難しいと言われる。

丸熊時代も、中卒の女だから給与が安いのかという苛立ちが出たこともある。

兄弟子二人に、中学校の絵の賞どころではない経歴を口に出されて、恥ずかしがってしまった。

結婚後も、美大卒の夫に対して、中卒のおばちゃん扱いをされました。あの陶芸家の奥さんは外国語ができると言われたこともあります。

喜美子は、朝ドラヒロインでもかなり賢い部類に入るとは思います。

けれども、学歴はない。

どれほど賢く知識を蓄えようが、アホな中卒おばちゃんでしかない。

『なつぞら』の夕見子のように、女でも学歴さえあれば、スンナリと通ったかもしれない理屈。それが喜美子は通らない。喜美子の直面する壁は女というジェンダー問題に回収されることが多いわけですが、そこには学歴もありました。

喜美子のこの挫折は、現状にも重なり合う。

エマ・ワトソンのような有名女優であるとか。上野千鶴子氏のような学者であるとか。

そうでなければ、権利なんて主張できないのではないか? そういうドツボも喜美子にはつきまとっていました。学歴と肩書きが常に不足する。それが喜美子でした。

それが穴窯成功後、一転します。

女性陶芸家として、個展を開く。それでも喜美子はその名声に戸惑っているというか、いつか消える虚名じゃないかと、淡々としているようなところはありました。陶芸家になってからの7年間がすっ飛ばされたといろいろ言われましたが、喜美子にとっては穴窯の成功こそが目標であり、それにくっついてくる名声その他諸々はおまけだとは思えたのです。

お金も稼いだし、言うことも通るようにはなった。

だからといって、派手な服は着ていない。着付けができるのに、高そうな着物を着るわけでもない。弟子にチヤホヤされるわけでもない。特に美味しそうなものをいつも食べているわけでもない。

家も地味。海外旅行にも別に行かない。そもそも信楽をあまり出ない。

喜美子にとっての栄誉って、自分の主張を通したり、めんどくさい手続きを住田あたりにぶん投げられるから、ええもんであって。

チヤホヤされるとか、モテモテになるとか。

パーティで乾杯音頭できるとか。テレビや雑誌に出るとか。

割とどうでもええ。そういう感じはありました。

栄誉に対して距離を置いているからこそ、武志相手でも「あのセンセイの息子」という肩書をつけないよう、突き放していました。

喜美子は頑固で。自分はともかく自分で、周囲に合わせられない。肩書きもどうでもええ。そういう自由奔放なようで、強いようで、圧倒的な孤高がありました。

八郎は、陶芸家として生きていくために、それまでの自由を捨ててドツボに陥ってしまった。

佐久間や柴田の期待や意見、世間のセオリーに振り回され、自分を見失ってしまった。あれは失敗してしまって、間違っているようで、実はこの世の中に適応する上では最適解だとは思うのです。

名声を使いこなし、利用し、のし上がっていくことはできる。喜美子自身も、マスコットガールミッコーは利用したれと割り切っていた。

結局、どちらが正しいのか?

その答えは、結局のところその人次第だとは思えるのです。

ただ、考えて欲しいことはある。

喜美子みたいな人はいる。

名声を得て、チヤホヤされて、浮かれ騒ぐ。そういう人が普通というわけじゃないんです。

名誉もひとつの道具だし、うちはうちだという揺るぎないものがある。

自分だけはずっと自分の味方。そういう根っこがあって、名誉はただの鎧。そう割り切れる人もいる。

そういう喜美子みたいな人を理解しないで、あいつはおかしいと言い切ることだけは、やめるべきだと切に思います。

そしてこれは、朝ドラという【肩書き】を持つ、作り手の闘いでもあったと思います。

大河と並ぶNHK公共放送の看板。けれども、特殊な15分、女性向けということから、小馬鹿にされる話でもある。

昨年、ずーっと「これは大河ならあかんだけで、朝ドラだけならええんちゃうか」と言われとって、イライラしておりました。

「ずっこけた大河やけど、あのアホなおばちゃんが見る朝ドラならええんちゃうか」

こういうわけわからん偏見が、近現代史=朝ドラ範囲ということにもなって、近現代史を一段低く見る。

朝ドラはええわ、せやけど大河だけを見ている自分はエライ! そういうニュアンス、もうほんまにええ加減にせえやと突っ込みたくてウズウズしとったわ!

2019年、朝ドラの近現代史考証の方が、大河よりまともです。めんどくさいから、ここではくどくど書かんけどな。

アホで有害極まりない偏見をNHKが作り上げるというドツボに陥っているとは思いました。

でも、朝ドラの作り手にもそこに反省はないと思える作品も多い。国民数パーセントしか手の届かなかった女学校通学が「当時の常識」みたいに描くとか。主人公周辺は戦死しないとか。

ええ加減にせえや! そう思っていたところ、改善の兆しがここ数年見えてきたようでよいことだと思います。

未知の才能「もっと火ぃを、もっと焚くんや」

喜美子の穴窯の挑戦は、経緯が神山清子さんからは変わっています。

独身時代、荒木荘に旅立つ前。父の言葉にある夕日の綺麗な場所に向かい、偶然カケラを見つけました。そのカケラを調べていって、これまた幼少期に出会った慶乃川の足跡を追いかけて、穴窯に到達するのです。

成人した結婚後、荒木荘に向かう前、さらにその前。カケラに導かれて、時計を巻き戻すような作りに圧倒されたものです。

まるで本質へ遡っていくようなものがありました。

けれども、このカケラに導かれる様子は理解しがたいものがあり、恐怖感もありました。

喜美子なりに考えに考えて結論を出すとはいえ、八郎始め周りからすれば、室町時代のカケラに取り憑かれてしまった「狂気」のように思えたこともわからなくもない。

誰かの魂が喜美子にとりついて突き動かしたような、恐ろしいものがあったのは確かです。

興味深いことに、こういうパターンの話は最近ある。

ミュータントとしての能力。ドラゴンの血。フォース。まあ、そういうもんです。

何度もあげた『アナと雪の女王2』はわかりやすくて、エルサが未知の声を聞き始めて、それを追い求めて旅に出る話でした。

※謎の声てなんやねん……

だからなんやねん、未知の旅て。

本人以外、わけがわからないところはある。それゆえ、困惑するし、止めようとするし、怒り出す人も出てくる。

本人だって、つらい。内側から湧き出してくる、わけのわからん力にとりつかれてしまう。

エルサも「家庭の安寧があるんやで!」と抵抗をするけれども、しきれない。ああいうもんだとは思うし、本人が一番つらい。

最終回を見るまで、総評をあげなくてよかったと痛感したのは、最終回に喜美子が自分の「エゴ」を反省したところです。

喜美子自身、ふくれあがったエゴ(自我)が周囲を傷つけることを理解している。

穴窯の後に離婚の苦しみを武志に語られて、苦しんでいた。

もっと普通の、とんがっていない、丸い自分だったらよかったのかな。普通の自分でよかったのに。

天才だのなんだの言われるけど、そんな才能がなければよかった。カケラに取り憑かれて、狂気だのおかしいと言われて、そんなん自分でもわかってて。

どうしたらええんやろな。苦しいなあ。

でもそんなこと、なまじ、周囲に相談できるわけでもなくて。自分の才能が傷つけると言われて、それでどうしたらよいのか?

天才であることって、幸せなようでそうでなくて、特に女性だと、周囲の安寧をぶち壊す魔女扱いをされがち。

そういう未知の力を探る旅にいくことで、本人が一番傷ついてボロボロになる。そんな喜美子に、生々しさを感じました。

喜美子の味方は喜美子で、敵も喜美子でした。

そんな喜美子には、救われた部分もありました。

誰からも好かれるなんて、結局のところ、できない。

愛されるために八方美人になって愛想笑いをするのか。それとも、自分の考える世界に突き進むために、嫌われることを覚悟するのか。

どちらがいいのか、喜美子は示してくれたと思えました。
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