西郷どんネタバレ&あらすじ&視聴率&キャストまとめ【最終回まで常時更新】

維新三傑と称えられるほどの活躍をしながら、最期は西南戦争に散った西郷隆盛

その生涯、いかに描かれるか?

と幕末ファンの皆さまが、ハラハラしながら見ている大河ドラマ『西郷どん』をよりドキドキしながら楽しもう!というのが本サイトの趣旨です。

当ページでは、
・ネタバレ
・キャスト紹介
・あらすじ感想
・幕末舞台の大河視聴率
・西郷隆盛の生涯【ダイジェスト版】
を掲載しております。

史実の西郷隆盛さんを見てみたい!
という方は本ページ最後の【西郷の生涯・ダイジェスト版】をご覧ください。

重要なイベント・流れは、ほぼ押さえられるはずです。

 

西郷どんネタバレ

原作や市販の関連書籍を参照しながら各話のネタバレ記事を公開しております。

若干異なる部分が出ておりますが、概ね合っているかなぁというところ。

その点、ご承知の上でご覧いただければ幸いです。

西郷隆盛(鈴木亮平さん)

 

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西郷どんキャスト&史実の一言情報

開始から1ヶ月。大事な役どころはほぼ公開されている?

と思ったら、人気キャラである勝海舟さんや坂本龍馬さん、あるいは小松帯刀など重要なメンツが未だ発表されておりません。

龍馬は「福山雅治さんか!?」なんてマスコミ報道もあり、にわかに活気づいております。

そういえば長州藩の木戸孝允や高杉晋作、あるいは大村益次郎あたりはスルーされちゃってますね。長州は3年前に『花燃ゆ』があったばかりなので仕方ないかも。

現時点で判明しているキャストをリスト化させていただきました【随時更新】

※名前にリンク先があるのは、その人物の史実がまとまった記事に飛びます(武将ジャパンへ)。

大久保利通(瑛太さん)

◆西郷家と郷中仲間
西郷隆盛……鈴木亮平さん(主人公)
西郷吉兵衛……風間杜夫さん(父)
西郷満佐……松坂慶子さん(母)
西郷龍右衛門……大村崑さん(祖父)
西郷きみ……水野久美さん(祖母)
西郷琴……桜庭ななみさん(妹)
西郷吉二郎……渡部豪太さん(弟)
西郷従道……錦戸亮さん(弟)
熊吉……塚地武雅さん(使用人)
伊集院須賀……橋本愛さん(最初の妻)
岩山糸西郷糸子)……黒木華さん(3番目の妻)
愛加那……二階堂ふみさん(2番目の妻)
大久保利通……西郷の親友・亡くなったとき借金だらけ(国に投じてた)
大久保利世(次右衛門)……平田満さん(利通・父)
大久保福……藤真利子さん(利通・母)
大久保満寿……ミムラさん(利通・妻)
桐野利秋……不明
大山格之助大山綱良)……北村有起哉さん
村田新八……堀井新太さん
海江田信義有村俊斎)……高橋光臣さん
有馬新七……増田修一朗さん
別府晋介……不明

◆島津家ならびに重臣
島津斉興……鹿賀丈史さん
由羅……小柳ルミ子さん(斉興側室)
島津斉彬……渡辺謙さん
篤姫(於一)……北川景子さん
島津久光……青木崇高さん
生麦事件……久光の行列をイギリス人横切る
赤山靭負(赤山靱負)……沢村一樹さん
桂久武……井戸田潤さん
調所広郷……竜雷太さん
小松帯刀……不明
山田為久……徳井優さん(斉彬側近)
喜久……戸田菜穂さん(斉彬側室)
篤姫と西郷隆盛の関係……不仲気味
幾島……南野陽子さん
村岡局……不明

於一篤姫(北川景子さん)

◆朝廷・公家
岩倉具視…笑福亭鶴瓶さん
孝明天皇……不明
明治天皇……不明
月照……尾上菊之助さん

◆幕府
徳川家定……又吉直樹さん
勝海舟……不明
阿部正弘……藤木直人さん
井伊直弼……佐野史郎さん

◆他藩その他
徳川斉昭…伊武雅刀さん
坂本龍馬……不明
大村益次郎……不明
ジョン万次郎……劇団ひとりさん
木戸孝允……不明
江藤新平……不明
ふき……高梨臨さん
タマ……田中道子さん
ナレーション……西田敏行さん

◆戦いその他
お由羅騒動……斉彬派と久光派の御家争い・2人の兄弟仲は悪くない
熊本城の戦い……鹿児島から熊本城へ出向き、ここで躓く西郷たち
西南戦争……1877年に勃発
不平士族の反乱……佐賀の乱→神風連の乱→秋月の乱→萩の乱→西南戦争へと続く

 

西郷どんあらすじ感想

『西郷どん』感想あらすじ第10回「篤姫はどこへ」
『西郷どん』感想あらすじ第9回「江戸のヒー様」
『西郷どん』感想あらすじ第8回「不吉な嫁」
『西郷どん』感想あらすじ第7回「背中の母」
『西郷どん』感想あらすじ第6回「謎の漂流者」
『西郷どん』感想あらすじ第5回「相撲じゃ! 相撲じゃ!」
『西郷どん』感想あらすじ第4回「新しき藩主」
『西郷どん』感想あらすじ第3回「子どもは国の宝」
『西郷どん』感想あらすじ第2回「立派なお侍」
『西郷どん』感想あらすじ第1回「薩摩のやっせんぼ」

※上記はいずれも武将ジャパン・武者氏のレビューページへ飛びます

 

西郷どん視聴率

ここ数年、視聴率は、比較が非常に難しくなっております。

ただでさえネットへの移行でテレビ離れが進んでいるだけでなく、手軽にできるようになった録画や、BS放送へ流れており、単純に本放送の数字だけでは判断しにくいなぁ、というのが率直なところです。
むろん、目安にはなろうかと思いますので、推移の流れを重視して見ていくのが良さそうですかね。

ここでは以下の幕末5作品に絞って掲載してみました!【月曜更新】

2018年西郷どん
2015年花燃ゆ
2013年八重の桜
2010年龍馬伝(全48回放送)
2008年篤姫

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西郷隆盛の生涯【ダイジェスト版】

西郷隆盛は1827年、鹿児島県鹿児島市の下加治屋町に生まれた。

父の西郷吉兵衛は、薩摩では一般的な下級武士(御小姓組という身分)。

西郷の下には弟と妹が3人ずつ計6人おり、一家は食えないほどではないが貧しく、1844年に西郷は、薩摩藩の郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)として働き始める。ときに18才。仕事内容は、農政に関するものだった。

そんな西郷に、最初の転機が訪れるのは1849年(23才)のとき。

薩摩藩内で「お由羅騒動」というトラブルが勃発したのである。

一言でいえば「島津斉彬島津久光の家督争い」に多くの家臣が関わったもので、西郷の属していた斉彬派は激しい弾圧を受け、約50名もの同志を失ってしまう。

薩摩藩というと一枚岩の強固な体制というイメージだが、ひとたび争いが起きると激情型の武士たちの血が猛り、なかなか収集がつかないようで。西郷の父が仕えていた薩摩の重臣・赤山靭負(あかやま ゆきえ)も切腹に処されてしまった。

このとき西郷の父が赤山靭負の形見を持ち帰り、西郷はそれを抱きしめ号泣したという。
島津斉彬と島津久光兄弟は、母が違えど両者の仲は決して悪くない。しかし、この一件で西郷が久光に対して負の感情を抱いたのは間違いないであろう。おそらくそれが原因で、後に幾度かのトラブルに見舞われてしまうのであった。

なお、斉彬と久光の家督争いは、最終的に幕府老中・阿部正弘の介入で、斉彬に軍配が上がる。

島津斉彬は、第11代薩摩藩主(島津家の当主としては第28代)となった。

 

島津斉彬による登用と死

悲しみに暮れた西郷に、次の転機が訪れるのは1854年(28才)。

彼の記した「農政に関する意見書」が島津斉彬の目に留まり、御庭方に抜擢された。

御庭方とは、主君のそばにいて様々な私用をこなす秘書のような存在。いわば雑用であるが、なぜこの役への就任が人生の転機となるのか?

それは島津斉彬との距離が縮まり、仕事をこなす上で人脈が広がったからである。若かりし頃の真田昌幸が才能を見込まれ、武田信玄の側に仕えていたのをご想像してもらえば想像がつきやすいだろうか。

要はこの役目、機転や目端の利く者が選ばれ、主君次第では、単なる雑用に留まらないのである。

島津斉彬は、海外事情に通じ、人の見る目も備えた聡明な藩主であった。

西郷だけでなく、薩摩の下級藩士から大久保利通や伊地知雅治、海江田信義を取り立てるほか(西郷は、彼らと共に精忠組を結成する)、島津家の代表として福井藩の松平慶永・宇和島藩の伊達宗城・土佐藩の山内容堂らとの交流もあった。この3名に島津斉彬も加えて「幕末の四賢侯」と称される。

そんな島津斉彬から何度か衣類を与えられるほど気に入られていた西郷は(巨漢だったためサイズが小さいまま着ていたという……)、他藩の藤田東湖や橋本左内などにも影響されながら、次第に藩の内外で重きを成していくのだが、ここで再び試練に立たされる。

幕府との政争に敗れ、結果、「安政の大獄」(1858年)に巻き込まれてしまうのだ。

巻き込まれるとは、どういうことか?

もともと斉彬たち幕末の四賢侯は、優秀な人物として知られた一橋慶喜(後の徳川慶喜)を将軍にすべく動き、西郷の尽力で“篤姫”の輿入れにも成功した。篤姫は島津家の一門。彼女が将軍・徳川家定に嫁ぐことにより、一橋派の発言権を高めようとしたのだ。

が、幕府の守旧派も彦根藩主・井伊直弼を大老として取りたて、この動きに対抗。一橋派を徹底的に弾圧(これが安政の大獄)しつつ、徳川慶福を十四代将軍に据えたのである。

慌てた島津斉彬も5,000の兵を率いて上京を画策したが、時既に遅し。その最中、西郷にとってあまりに衝撃的なことが起きる。

斉彬が病で急死したのだ。

 

月照と共に入水自殺をはかる

政局激動のタイミングで、その旗手が急な病死とはいかにもきな臭い。
もしかして暗殺?

そんな思惑も蠢くところだが、いずれにせよリスペクトしてやまない主君を失い、絶望の底に落とされた西郷は、殉死も考えた。
これを食い止めたのが、清水寺成就院の僧・月照だった。

しかし、このことが皮肉な結果に繋がるのだから歴史の神様は意地悪としか言いようがない。

安政の大獄で命を狙われた月照を助けるため、薩摩へ一緒に帰郷した西郷は、彼を匿うどころか、藩からは逆に月照の殺害を要求されてしまうのだ。

義理堅い西郷はこれを受け入れられず、月照と共に鹿児島・錦江湾で入水自殺を図る――。

船から飛び込んだ月照は、そのまま亡くなった。

同じく入水した西郷は、奇跡的に息を吹き返した。

このとき32才(1858年)。
行き場を失った彼は、奄美大島での蟄居を命じられるのであった。

 

島津久光を田舎者呼ばわりでまた左遷

島での生活は長く続いた。

32才で渡り、薩摩への帰還を赦されたのが36才(1862年)。実に4年間である。その間にも中央での政局は動き、政敵だった井伊直弼は桜田門外の変(1860年)で既に殺害されていた。

この一件で、政敵への弾圧政策を控える方針に変えた幕府は、朝廷との連携を踏まえた「公武合体」へと動く。

そこで登場するのが、西郷の憎き相手・島津久光だ。
息子の島津忠義を第12代藩主として権力を得た久光は、中央での影響力拡大のため兵を率いての上京を考え、このとき重用していた大久保利通から「西郷の起用」を促される。

名の知られた西郷がいれば、京都での政局に役に立つ。久光としては実を取ったのであろう。

しかし、久光に意見を求められた西郷は、かくの如く答えてしまう。

「御前(久光)は地ゴロ(田舎者)で、事情に暗いから無理でしょう」

絶対権力者に向かって、これはあまりな言い様。
互いの不信感は極限まで高まり、まさかこんな状態で上京策がウマくいくハズもなく、道中のゴタゴタで再び久光の怒りを買った西郷は薩摩へ送り返され、またもや島での生活を余儀なくされるのだった。

奄美大島から戻ってわずか3ヶ月のことだった。

なお、この直後の1862年5月、薩摩藩の内輪モメとして著名な「寺田屋事件」が起きている。

有馬新七をはじめとする薩摩の「尊皇派」が、「公武合体」を掲げる島津久光に反し、京都の寺田屋で両者が激突したもので、実に10数名の死傷者を出すのだ。

このとき久光の命で出向いていたのが、西郷や大久保と同じく精忠組に所属していた大山綱良であり、寺田屋の2階には、当時、尊皇派だった西郷の弟・西郷従道や、後の陸軍大将・大山巌も在籍していた。両者は、薩摩へ戻され、謹慎処分となっている。

※公武合体……島津久光は日米修好通商条約を機に分裂していた「朝廷」と「幕府ならびに有力諸藩」で手を組み、体制を再編かつ強化しようとしていた

話を西郷隆盛へ戻そう。

 

小松帯刀の取り成しで薩摩へ戻る

徳之島から沖永良部島へ。
再び島送りに処された西郷を待っていたのは、過酷な処罰だった。

西郷家の知行や財産は没収されてしまうのである。

普通なら、もう二度と出番はないだろう――。
現代の我々ならそんな風に思ってしまう場面だが、激動の時代はまだまだ続き、再び出番はやってきた。

1862年、島津久光が当事者ド真ん中となった「生麦事件」が勃発し、薩英戦争へと発展。
イギリスひいては欧米の軍事力に圧倒された薩摩は、外国勢力にあくまで対抗しようと攘夷を掲げる長州藩と敵対する。そして1863年には会津藩の松平容保と手を組み、長州を京都から排除したのだ(八月十八日の政変)。

このとき薩摩を主導していた島津久光としては、台頭する長州藩の勢力を排除し、発言力の強化を期待していたであろう。

しかし、である。
今度は一橋慶喜、松平容保、松平定敬(桑名藩)の「一会桑政権」が政局を握ることになり、久光は政治力で敗北してしまう。

かくして藩の内外に未だ影響力を保持している西郷隆盛に頼らざるをえない状況となり、翌1864年、西郷は京都における薩摩の軍賦役(軍司令官)として呼び戻されるのであった。

島津久光と再会した西郷は、今度ばかりはオトナであった。
間を取り持った小松帯刀の存在も良い方向へ働いたのであろう。

二人の間に一時の平和は訪れるものの、各藩の思惑うごめく京都はそうもいかない。

西郷の復帰から程なくして、長州藩が京都へ攻め込んできたのである。

松平容保を排除するため、自らの復権を目指すため、必死となった長州。
戦闘になった舞台は京都御所の近辺である。

薩摩軍を率いる西郷は、伊地知正治らと共に乾御門での戦いに参加し、結果、これを追い返すことに成功した(1864年6月)。

更に、である。戦闘のわずか数ヶ月前、島から戻された当初は、歩行することもままならなかった状態だったにも関わらず、同騒動で再び勇名を馳せると、続く第一次長州征伐(1864年7月)でも指導力を発揮。

そんな西郷にとって、大きな出来事となったのが、この頃、出会った勝海舟ならびに坂本龍馬であった。

西郷隆盛、38才。にわかに新たな運命が動き始めた。

 

勝海舟と出会い、そして薩長同盟へ

第一次長州征伐で叩かれた長州藩は、「三家老・四参謀が切腹」し、「謝罪状を提出」し、「山口城を破却」する等で、事態は一時収まった。

しかし、同藩内では代わって高杉晋作の奇兵隊が勢いを増すなど動きは過激化し、やはりこれでは処遇が手ぬるいと考えた幕府は、京都・大坂に6万の兵を集め、第二次長州征伐へと進もうと画策する。
当然ながら、薩摩にも参戦を促した。

西郷は、幕府からの打診をかわし続けた。
このとき大久保利通が幕府の使者に対し「耳の遠いフリをして話をはぐらかした」という有名なエピソードがあるが、それは大久保利通のページに譲りたい。

ともかく幕府からの長州征伐を断った背景にあったのが、坂本龍馬や中岡慎太郎らに説かれていた薩長連携の方針である。

勝海舟の「国内でモメている場合じゃない」という考え方に共鳴した西郷は、1865年ごろから龍馬らによって活発化していた薩長連携の動きをより具体化させ(黒田清隆を派遣したり)、1866年、ついに桂小五郎(木戸孝允)と「薩長同盟」を結ぶのであった。
薩摩は、あくまで長州征伐をスルーすることに決定したのだ。

そんなこととは露知らず、長州藩へ攻め込んだ幕府は、先の高杉晋作のみならず、大村益次郎(後に明治政府の軍隊を整備)らの反撃に遭って敗退。
もはや「チカラのないこと」を心ならずも周知してしまう。

だったら後は幕府を倒して政権交代するだけね♪
というほど単純でもないのが、歴史の授業では学べない、リアル史実の面白いところ。

薩長同盟により倒幕の方針が固まったのは、あくまで西郷隆盛や大久保利通など、前線で指揮していた者たちの認識でしかない。

中央で政治の実権を握る「一会桑政権」(慶喜・容保・定敬)はまだまだ健在。
将軍となった徳川慶喜(一橋慶喜)は有能な人物であり、このころ影が薄くなりつつあった島津久光も、武力行使を辞さない西郷の方針に反対していた。

おまけに西郷らは、戦費等にカネを使いすぎた。

薩摩藩の財政は逼迫しており、このまま政権を握ることができず、財政難に陥れば、今度は西郷たちが失脚を免れない。
いかに幕末のヒーローとて聖人君子ではなく、「義」だけでは軍も動かせず、考えようによっては窮地に立たされていたのである。

倒幕――。
その目的は、単純に「政治が変わる」という優しいものではなくなっていた。

 

徳川慶喜がアッサリと大政奉還案を受け入れて

ここでカギとなったのが後藤象二郎ら土佐藩である。

土佐藩は、武力行使をせずに「王政復古・大政奉還」を目指すソフトランディング路線を掲げて、薩摩と同盟を締結。
薩摩とは真逆の方針であったが、『幕府も簡単には政権を返上せず、結局は戦争になるであろう』と予想していた西郷は、有力各藩と手を結びその時を待つことにした。

が、”その時”は思わぬカタチで翻される。
1867年、徳川慶喜がアッサリと大政奉還案を受け入れ、文字通り「幕」は閉じてしまったのだ。

慶喜にしてみれば、大政奉還に踏み切ったところで今後も徳川のチカラが不可欠なのは必定、ならば争うより政治力を保っておいたほうがよいと考えたのだろう。
その証拠と思えるのが、大政奉還後も続けられた戦闘である。

皆さんは不思議に思ったことはないだろうか。
1867年に大政奉還で江戸幕府の幕は閉じたハズなのに、翌1868年1月から鳥羽・伏見の戦いを端緒とした戊辰戦争が始まったことを……。
これには少しややこしい背景がある。

たとえば大政奉還から3ヶ月後の1868年4月、江戸城が無血開城され、倒幕に際して「あくまで江戸での流血はなかった」と思われがちである。
しかし、そんなことはない。

以前から江戸では、西郷の手の者による強盗や放火などのテロ行為が行われていた。
江戸の町民たちは彼らを「薩摩御用盗」として恐れていたほどで、幕府方は挑発され続けていたのだ。

そもそも戊辰戦争のキッカケの一つに「江戸の薩摩藩邸が焼かれた」という事件があったが(1867年12月)、これも紐解けば、薩摩側が先に庄内藩の屯所(たむろじょ・兵や警官が在住するところ)を襲撃していたから、その反撃で焼かれたのであり、幕府にとっては薩摩へ報復したに過ぎなかった。

つまり西郷ら薩摩から、幕府に戦争を仕掛けていたのである。

こうした出来事を意図的に取り上げて、批判したいワケではない。
歴史上、戦いには必ず流血がつきものであり、無血開城という言葉が、あたかも「江戸が無傷であったかのような誤解」を解いておくためだ。

実際、北日本における戊辰戦争の仕上げを経て、徳川の力を削ぎ、ついには明治維新を成功へと導くのであるから、西郷の進んだ道は結果論としては国を一つにまとめるにあたって正解だったのであろう。

 

不平士族の蜂起が次々に起き

強引ながらも倒幕へと突き進み、これを成し得た英雄――。

大久保利通、木戸孝允と共に「維新三傑」と称される西郷隆盛は、その激動っぷりを見ると3人の中でも別格である。

命を賭して新政府を樹立しておきながら、その後は鹿児島県へ下野。
権力にはまるで興味がないとばかりに地元の湯治場でノンビリと過ごし始めるのだから、その愛嬌さもあいまって、今なお多くのファンに支持されるのも無理はない。

そして、その最期となる西南戦争(1877年)もあまりに劇的だが、西郷がその間、何もしなかったワケじゃない。

かつては憎み、そして常に非難されていた、苦手な相手・島津久光。
その久光が、新政府に対して不満を抱き、そのストレスが西郷に降りかかってきたのである。

西郷を主人公としたストーリーで、久光はとかく悪者にされがちだ。
が、このときばかりは久光だけを悪く言うのはむごかろう。

なにせ「廃藩置県・版籍奉還」によって旧・藩主たちの権威・権力は根こそぎ奪われ、倒幕後の新政府は急激に西洋化。
薩摩だけでなく日本の将来そのものに、久光が不安を募らせても致し方ないところである。

そしてその不満は爆発寸前どころか、代わりに火を吹いたのが、全国の元士族たちであった。
ざっと挙げてみると……。

1874年 佐賀の乱……新政府から下野した江藤新平が佐賀県で起こした反乱
1876年 神風連の乱……熊本県で太田黒伴雄(おおたぐろともお)、加屋霽堅(かやはるかた)らが蜂起
1876年 秋月の乱……福岡県で秋月藩士・宮崎車之助を中心に起きる
1876年 萩の乱……山口県で前原一誠らが立ち上がる

なぜ立て続けに、不平士族の反乱が連発したのか?
キッカケは、明治六年政変と呼ばれる新政府内でのゴタゴタだった。

 

征韓論で新政府は真っ二つ

隣国・朝鮮に対する取り扱いについて、新政府内で意見が真っ二つに割れ、多くの者たちが政府を抜けたのである。別名「征韓論政変」とも称されるのはそのためだ。

征韓論の内容を端的に表すと以下の通りである。

日本よりも強固な保守体制で鎖国を続けようとする朝鮮に対して、開国を迫るか否か。
その第一弾として「西郷隆盛を使節として送る」というもので、これに対する賛成・反対のメンバーは文字通り真っ二つに割れた。

◆征韓論・賛成派……西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋、大隈重信、大木喬任など

◆征韓論・反対派……大久保利通、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文、黒田清隆

西郷と大久保。
幼き頃からの盟友、維新三傑に名を連ねる両名がここで完全に分かれてしまった。
ナゼこんなことになったのか。

それは岩倉使節団に随行し、諸外国をナマで見てきた大久保が日本の弱さに打ちのめされ、まずは内政に注力すべしと感じたからだという。
もしも西郷を朝鮮に送り、そこで殺されでもすれば朝鮮を相手に戦争となりかねない。そうなれば、その先にある清国のみならず諸外国からも叩かれる恐れがあり、そんなリスキーな目論見を推し進めるワケにはいかなかった。

最終的にこの論争は、明治天皇のご意向により西郷の派遣は見送られる。
が、敗れた賛成派のメンバーたちは次々に下野。その部下たちなども続き、合計約600名もの軍人・官僚が職を辞した。

1874年に江藤新平が佐賀の乱を起こした背景には、こうした事情があった。
そして1877年、ついに西郷も自ら動かざるを得ない状況となる。

西南戦争の始まりだった。

 

「晋どん、晋どん、もう、ここでよかろう」

明治10年(1877年)、2月15日。
西郷軍は熊本城に向けて進軍した。
と、次々に不平士族たちも加わり、軍の規模は総勢13,000を超えたという。

庶民の多くは判官贔屓もあり、西郷の味方。
そんな状況も手伝ってか、士族たちはタカを括っていた。

「新政府の軍隊など、全国からの庶民を集めた寄せ集めに過ぎない」
「我ら生粋の武士たちに戦いで勝てるワケがなかろう」
「おまけに城に籠る熊本鎮台軍や約4,000ではないか」

しかし結果は真逆だった。
西郷軍は熊本城を陥落させるどころか、火力に劣る状況にも関わらず篠原国幹や村田新八、永山弥一郎、桐野利秋ら名だたる志士たちが無謀な力押しを続け、疲労を重ねるだけだった。

一方、政府軍は谷干城をはじめ樺山資紀、児玉源太郎ら、後の軍部の大物たちが奮闘し、西郷らを苦しめ続ける。

そうこうしているうちに政府軍の加勢が西郷軍らに迫り、これまた後の大物軍人・乃木希典なども参戦して両軍が激突。高瀬付近の戦いと呼ばれる激戦が行われ、西郷隆盛の末弟・西郷小兵衛も討ち死にしている。

戦闘はその後、激戦として著名な「田原坂・吉次峠の戦い」に移り、ここで西郷軍は手痛い損害を被るが、さりとてスグには終わらない。
2月に始まった西南戦争は、実に9月まで続くのである。

最終的に鹿児島市まで追い込まれた西郷らは、9月1日、同市の城山地域に布陣。
旧知の桐野利秋や村田新八、別府晋介などと共に洞窟に籠るなどして、最期の戦闘に備えた。
地元では、事ここに至っても西郷に味方をしていたという。

が、ここでの戦いがもはや勝利を望めるものでないことは明白だったであろう。
間もなく政府軍に包囲され、それでも西郷は降伏勧告を無視しながら、激戦に耐えていた。

それから約20日間後の9月24日。
次々に味方が斃れ、自らも被弾すると別府晋介に声をかける。

「晋どん、晋どん、もうここらでよか」

西郷は、襟を正して東に向かって拝礼すると、将兵らに見守られる中、自ら腹を切った。
介錯に当たった別府晋介もまた、この場で切腹して果てる。
西郷隆盛、満49歳。

日本が大きく変わった日でもあった。

西南戦争における西郷軍の死者は6,765人に達した。
凄まじい死亡率である。
が、官軍の死者もまた6,403人に及び、どちらか勝者かわからないような被害。

鎌倉以来続いた島津・薩摩の底力をあらためて見せるつけるような、壮絶な戦いだった。

本稿はスマホ用に短くマトメたものです(と言いつつ長くて申し訳ありません)。

より詳しくご覧になりたい方は、以下の記事をご覧ください。

文:編集部

【参照】
国史大辞典「西郷隆盛」
西郷隆盛/武将ジャパン

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西郷隆盛の年表

1827年   1才 鹿児島で生誕
1839年 13才 ケンカの仲裁で怪我を負って刀を握れなくなり、勉学に励む
1839年 13才 蛮社の獄で高野長英や渡辺崋山などが捕らえられる
1840年 14才 アヘン戦争始まる(2年後に終わる)
1841年 15才 天保の改革(水野忠邦)
1844年 18才 郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)に任命される
1850年 24才 農政に関する建白書を提出
1850年 24才 お由羅騒動勃発・赤山靱負の切腹で号泣する
1851年 25才 ジョン万次郎が帰国
1853年 27才 家督を継ぐ
1853年 27才 ペリー来航(翌1854年に日米和親条約)
1854年 28才 島津斉彬のお庭方となり江戸へ・政界工作に携わる
1854年 28才 藤田東湖と出会う
1855年 29才 橋本左内と出会う
1857年 31才 篤姫と徳川家定が婚姻
1858年 32才 日米修好通商条約に調印(松平忠固が推し進めた)
1858年 32才 島津斉彬が急死
1858年 32才 安政の大獄で追われ、月照と共に入水・奄美大島で蟄居
1859年 33才 吉田松陰に死刑
1860年 34才 桜田門外の変
1862年 34才 和宮親子内親王が徳川家茂へ降嫁
1862年 36才 奄美大島から帰還
1862年 36才 寺田屋事件で薩摩の攘夷派が島津久光に粛清される
1862年 36才 島津久光の怒りを描い、今度は徳之島&沖永良部島へ
1862年 36才 生麦事件
1862年 36才 高杉晋作らの英国公使館焼き討ち事件
1863年 37才 新撰組の前進・壬生浪士が結成される
1863年 37才 長州藩が下関戦争(英・仏・蘭・米)
1863年 37才 薩摩藩が薩英戦争
1863年 37才 八月十八日の政変で長州藩を京都から追放
1864年 38才 再び赦されて、京都における薩摩藩責任者となる
1864年 38才 池田屋事件(長土藩の攘夷派が新撰組に討たれる)
1864年 38才 禁門の変で薩摩&会津が長州を京都から追放
1864年 38才 佐久間象山が暗殺される
1864年 38才 第一次長州征伐で長州はソク白旗
1866年 40才 西郷隆盛と木戸孝允、薩長同盟を結ぶ
1866年 40才 アーネスト・サトウが『英国策論』を執筆
1867年 41才 明治天皇が即位
1867年 41才 徳川昭武がパリ万博へ
1867年 41才 高杉晋作が結核で死亡1867年 41才 徳川慶喜が大政奉還に応じる
1867年 41才 坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺される(近江屋事件)
1867年 41才 庄内藩が、薩摩のテロ行為に報復として江戸藩邸を焼き討ち
1868年 42才 鳥羽伏見の戦いをもって戊辰戦争が始まる
1868年 42才 戊辰戦争の東征総督府参謀として指揮(江戸城無血開城)
1868年 42才 会津戦争・北越戦争・上野戦争・箱館戦争
1869年 43才 版籍奉還
1871年 45才 廃藩置県
1871年 45才 岩倉使節団が欧米へ・西郷らが留守を預かる
1873年 47才 征韓論を機に下野し、鹿児島へ
1874年 48才 鹿児島に私学校を設立
1874年 48才 佐賀の乱で江藤新平が死亡
1875年 49才 秩禄処分で士族の家禄等が剥奪される
1876年 50才 廃刀令により士族は帯刀の特権も奪われる
1876年 50才 神風連の乱・秋月の乱・萩の乱
1877年 51才 西南戦争

 

1 Comment

匿名

キャストに瑛太さんの名前が書かれてないです!

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