テーレービーやーーー!!
福子の演技って、思えば序盤は擁護されておりましたね。
まだ18才なんだから、とかなんだかんので。
いや、あの時代の18才でいくらなんでもあれはない。そう突っ込んだ私は異端者でした。
そして今、あのときから20年以上が経過しております。
加齢を計算に入れた、それにふさわしい演技になりましたか?
えぇ、うん。
目をそらしたくなりますよね、悪化してますもんね。
毎朝キエエエエエエエの奇声に百面相♪
もう、なんというか、異常性ばかりが際立っていて辛い。
8才でもない。何才でもない。なんなんだ、こいつは。
そしてそんな奇声シャウトが、
「テーレービーやーーーー!」
ですって。
もう何度指摘してきたことだろう。
発明家らしい研究はザル。
それでもってトレンディ広告でヒットしてセレブになるところはしつこい。
【ファイナルテレビファンタジー】
結論からいうと、これじゃないかな?
本作は、安藤百福世代ではなく、むしろその子世代にあたる、トレンディ業界人にとってのファイナルファンタジー、最後の楽園じゃないかと思うんです。
今、広告で最も伸びている分野は、言わずもがなネット広告です。
日本でも、そろそろネット広告がテレビを上回るとされていて、時間の問題でしょう。
若い世代の憧れる姿は、広告マンではなくてYouTuberですからね。
あるいは広告代理店にしたって、何かと話題になるのはネット系のサイバーエージェントが筆頭。
AmebaTVは説明するまでもありませんね。
そんな細り行く一方のテレビが、キラキラと輝いていた黄金時代。
テレビに関わっている、テレビ広告にタッチしているといえば、エリートゲスマウンティングできたあの頃。
会社の経費でおねえちゃんと酒を飲み、女子社員にセクハラをしまくり、ノリだけの会議でイケた頃。
喫茶店でサボり、スポーツ新聞のピンク小説を読み漁っていた頃。
いじめをやんちゃとして自慢していた頃。
お茶汲みは全部OLに任せていた頃。
家事育児は妻に丸投げしていた頃。
保育園に我が子を迎えに行くからと早退する部下がいなかった頃。
女社員は25過ぎたらクリスマスケーキとバカにできた頃。
炎上なんて怖くない、女を小馬鹿にする広告がトレンディだった頃。
小馬鹿にされた女は、ムキになって怒らないでニコニコ笑って空気を読んでいた頃。
パソコンなんてできなくても良かった頃。
そんな時代はよかったよな〜〜〜。
というファンタジーならビンビンに伝わってきます。
そういう時代には功罪がある。
よいところもありました。そういう空気を、照れや反省をこめつつ描くのであれば、むしろ面白いものです。
『半分、青い。』の岐阜サンバランドだの、マハジャロだの、見ていて楽しかったものですよ。
前作が執拗に叩かれた理由も、なんとなく見えてきましたね。
空気を読めない? 何が悪いんだ?
本作信徒と前作異端者はナゼ表裏一体なのか?
何度も分析して来ました。
前作は、こういう【ファイナルテレビファンタジー】を、テレビ自ら破壊するようなところがあったのかもしれません。
ノスタルジーが見えなくする、
・バブルや平成の汚い部分
・不都合な真実
を暴きましたからね。
そのあたり、象徴的なのが鈴愛と福子の困窮かもしれません。
漫画家を辞めた後、鈴愛は就職の壁にぶつかり、シングルマザーとして苦労します。
受付嬢は年齢ではねられると言われるわ、左耳失聴や漫画家という前歴もネックになるという残酷さでした。
しかし、ある意味これも平成のリアリティなんですよ。
一方で福子は、奇声を発してごろ寝したあとは、真一がATMになるというご都合主義でしたからね。
前作にあった「リアリティがない」という批判すら起きない。
困窮した鈴愛が周囲に頼ることは舌打ちされたものですが、たかってばかりの福子と萬平はそうでもない。
要はリアリズムの差なんですよ。
鈴愛の困窮は生々しいだけに目を背けて叩きたくなった。
福子だと、御都合主義で、安心できるのでしょう。
ああいう叩き方は、声をあげたマイノリティが叩かれる構図と似ています。
LGBT、外国にルーツのある人々、ハンディキャップがある人、福祉に救ってほしいと声を上げる人、#Metooと言う人。
こういう人々が言われる言葉はこうなんです。
「空気を読めない奴だ」
「騒ぐ方がおかしい」
「声をあげて恥ずかしくないのか」
要するに、お前らに気を使うなんて面倒くさいから黙れ、ってだけの口塞ぎっすね。
それで黙る時代は終わったんです。
そうそう、これはファイナルファンタジーなんだ。
空気の読めない奴だからこそ、見える空気があるものでして。
それでいいじゃないですか。
もう空気なんて知りません。
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文:武者震之助
絵:小久ヒロ
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『べっぴんさん』の大急百貨店なら、そもそも世良のような人物は遠ざけていたでしょうね。
多分あの作品世界の中でなら、五十八も大島社長も、五十八の兄の長太郎も、あのような大言壮語ばかりの怪しげな人物は、近づけないであろうところ。
実際、世良は、塩の横領などをはたらく輩だったのですから。
恐らく、潔や栄輔ですら、ああいう手合いには警戒して近づかなかったろうと思われます。
あ、でも栄輔は、
…いかん、ネタバレになりますね。
どうしたわけか、『まんぷく』の世界では、商工会議所会頭の近くにまで出入りしてましたが。
これではね…
この作品が『べっぴんさん』の小山たちがいたら、早期に販売が打ち切られるだけでなく、福子だけでなく、世良も大急から出禁にされそうだな。
随分前に離脱し、今は週一程度の確認視聴していますがレビューは毎回楽しみに拝見しています。
いつも感じるモヤモヤを、はっきりとわかりやすく解説していただき大変勉強になります。
先日NHKのねほりんぱほりんを見ていたら、タレントのYOUさんが映画「誰も知らない」出演時に助演女優賞を受賞した事に言及されていました。
確かにあの映画の母親は妙にリアリティがあり、生活を覗き見するような感覚になったことを覚えています。
最近たまたま別ドラマで、子供を捨てた母親役を演じたYOUさんを見たのですが、まー、ド下手(失礼)でビックリしました。
結局、“演技派” “演技が上手い”って何なんでしょう…。映画やドラマの評判がいいと俳優の演技が絶賛されますが、演出・脚本・スタッフのやる気などが全部関わって、相乗効果が生まれて初めて演技が上手いってなるわけで、俳優ひとりの力量ではないよなぁ、と思うこの頃です。
かく言う私は万引き家族を見ていないので偉そうなことは言えません。あの映画中の安藤サクラさんは絶賛されて然るべきなんでしょうが、まんぷくは……ホントに同じ人なの?と思ってしまいます。
今日の『べっぴんさん』第117話。
就職しようとするさくらと健太郎。
「うーん…なんでこんな風に育っちゃったかな…」というところ。
本放送当時、私にとっては、彼等の高校生時代以上に苛立たしさに耐える時期でした。
従業員に動揺が拡がりましたが、よくわかります。
とは言え、これもまた未熟さゆえのこと。創業者子女に起こりそうな事象をプリミティブな形で示していますが、どう乗り越えて成長していくか、もう一度見直してみたいと思います。
思えば、人はその生涯を終えるまで、常に成長を続けるもの。それは親となった人とて変わるものではなく、すみれたちも、子に手を焼きながら成長していました。
こういうことを考えられるのも『べっぴんさん』ならでは。
『まんぷく』では無理ですね。
誰も成長しない、と言うより更に悪いことに、ご都合主義的にキャラがぶれるので、同じ人物なのに統一感がない登場人物が多すぎます。
朝ドラでちゃんとしたファンタジーなら、「純と愛」を挙げたいですね。
主人公の夫は、双子の弟が死んでから「周囲の人物の心の声が聞こえてくる」という現象に悩まされていました。
ドラマでは、その声が聞こえなくなる過程を通じて、主人公の変化を描いていました。
見ていた当時はそのようなよくわからない設定についていけない思いもありましたが、
今思えばそれは朝ドラに「ファンタジー」を持ち込むという革新的な試みだったのですね。
今さら分かりきったことを、ときっと言われるに違いないけど、改めて痛感したので記しておきます。
西郷どん、わろてんか、まんぷくのようなダメ台本の会話には明確な共通点があり、今週に入って「まんぷくラーメンがなぜ売れないか」の口論にはそれが特に顕著に表れていますね。つまり、AがBに問題点を指摘する。するとBはノーと言って否定する。AはBのノーに対するノーを言い、にらみ合うだけ。「なぜ、どこがどのように違うのか」互いに一切言わないから、話は全く発展しない。CもDもみんな同じ。強い口調で否定だけはするが、ではどうすれば良いかという代案はちっとも出さない。たまに代案が出て来ても、たとえば忠彦画伯様がせっかく改訂版デザインを描いて夜中に持って来てくれてるのに、福子奥様は「現在のパッケージは何も悪くない!」と根拠もなく言い張り、「そんな別案なんか要らない」とにべもなく突き返す。何だよそれ、本当にひどい。傍観者として見てても実に不快なシーンです。いつもいつもそんな場面ばかり。こちとら、昔のドリフ大爆笑の長介さんみたく思わず「ダメだこりゃ」とつぶやいてしまう。
これら駄目脚本家殿はたぶん「テーゼ→アンチテーゼ→アウフヘーベンしてジンテーゼ」という近代的思考手順の原理とかもあまりよく知らないんじゃないでしょうかね。
脚本家って、本当に大変な仕事だと思う。半端無い人生経験も凄く幅広い知識教養もなきゃいけない。そこから卓越した想像力と創造力がおもむろに湧き出て来るのでしょう。やっぱり秋風羽織先生のさまざまな厳しい言葉が嫌でも思い出されて来る昨今です。
「この自己愛は、TV界を滅ぼす」
なんつって
個人的な印象ですが、
昭和期のいわゆるTV業界人の誇りは、「自分達の仕事」=作品 にあったような。
だから、他者の作品に対しても相応の敬意があったような。
それに対して、昭和末期~平成期には、「仕事した(つもりの)自分達」=自分達自身 に誇りを持ってる人があったような。
何となくですが、バブル期頃の作品には、中身ではなく「こんな俺達が関わってるんだぞ」と言いたげな空気を振りまいているものが時々ありました。
だから、そういう作品を送り出した人々にとって、作品は単なる手段…自分達がおごりたかぶるための…でしかない。
作品を見る人々のことなどどうでも良い。下手すると「こんなものマジで見てるの?」などと嘲りすらあったかも。
自分達が関わった作品にすらこうだから、他者の作品に払う敬意など微塵もない。
視聴者のことなど眼中にないかのような雰囲気や、先行諸作品への敬意の欠如など…
え? 『まんぷく』のことかって?
さあ…?(笑)
Yahooの記事についている
萬平ラーメン教信者さんたちのコメントが気持ち悪いです…
そもそもこの作品が「日清の」「ラーメン開発」コンセプトで始まっているのだから、チキンラーメンがイメージされるのは当然ですし、ドラマを忌々しく感じる私ですら、久々に一つ買ってみようかと思うくらいですから、宣伝要素があり、ある程度市場が動くのは想定内でしょう。ただ、もっと細かなエピソードや機微を散りばめて作られたドラマなら、安藤氏の発明ではない、という意見さえも工夫して展開に盛り込まれていたら、もっともっと好意的、積極的にチキンラーメンはクローズアップされたことでしょう。前作で、五平餅が人気になったように…。
スーパーでチキンラーメンが品切れ、とか言うネットワーク記事がありますが、Twitterの投稿を取り上げての記事ですね。
Twitter投稿するならスーパーに並んでいるチキンラーメンを一時取り出し、写真を撮ってから棚に戻して、チキンラーメン爆売れ、という投稿してるかもしれないですよ。
もしそうなら、Twitter投稿等何の信用もないことは明らかで、それを真に受けてネット記事にするなど、それこそ信用出来ません。
世の中にあふれる記事。何を信用するかは自分の感覚でしかないのですが、本作を視聴して素直な感想は、すべて武者さんが書いてくれています。