水割りを飲みながら、亜矢美に感謝する咲太郎。
彼女が母になってくれたことで、どれだけ幸せだったか。そう語る咲太郎を、亜矢美はこう笑い飛ばします。
「何言ってんの、今更」
「かあちゃんに会えなかったら死んでた。生き延びることだけではなく、生きることを教えてくれたんだ……」
亜矢美から咲太郎へ伝わった、生きることとは?
エンタメやるなら本気で勉強しろ
ムーランルージュに引っ張りこんだだけ――亜矢美はそう笑い飛ばします。昔のことは忘れたって。
当時は、金儲けのことばかり考えているクソガキだったと、亜矢美は振り返ります。
ここから、回想シーンへ。
亜矢美は本を読むよう、咲太郎に勧めている。
けれども、咲太郎は聞く耳を持たない。足で金を稼いで、早く妹たちを迎えに行くと言い張るのです。
それを亜矢美はきっぱりと否定する。
バカのままでどうするのか?
わからないたび調べるって、それでいいのかって。
進駐軍相手にタップダンスをするにせよ、それが通じるのは彼が子供だから。
下手くそな踊りに金を与え続けるほど、彼らはバカじゃない。
「人を本気で楽しませたいと思うなら、本気で勉強しろ!」
亜矢美はそう言いながら数冊の物語を薦め、わからない言葉は辞書を引きながら読めと諭します。
「かあちゃんいなけりゃ、バカのまま」
「今もバカ!」
そう笑い合う母と子。
頭の良さとは何だろう?
イッキュウさん、夕見子、信哉のような学歴で示されることもある。
でも、それだけ?
そうじゃないだろう――という本質的な賢さに本作は踏み込みたいようです。
人生という舞台は続く
ある日、咲太郎は泣いていました。
孤児院の歌を聴いていると、涙が出てくる。
「咲太郎、こっちおいで。ほら、おいで」
亜矢美は泣く咲太郎をぎゅっと抱きしめるのです。
「親を亡くしたんだから、泣いて甘えていい。私をおかあちゃんって呼んでごらん」
「いいよ……」
「いいから、呼んでごらんって。ここは劇場だよ。私たちは、何だって演じられるんだから。ほら、かあちゃんって呼んでみな」
「かあちゃん……」
「なんだい、咲太郎」
「かあちゃん……」
歌声の中、抱き合う二人。
この世界は舞台だから、男も女も、皆役者。ドラマってそういうものだ。
そんな親子劇は、まだ終わりません。
「かあちゃん、俺は何も、変わらないからな」
「わかるよ。これからも、変わらず偽物の親子だろ」
「今度は甘えてくれよ」
咲太郎がそう言うと、かあちゃんはこう来ました。
「またムーランルージュを建てておくれよ。また踊りたくなって」
もう50だろ。
人間五十年の歳だと咲太郎は突っ込みます。
「死ぬ前に一度踊りたい」
なんだか織田信長みたいなことを言いだしたぞ、亜矢美!
※来年の大河は神っちがこれをやるのかな〜
そう言われて、咲太郎はやる気まんまん。
ムーランルージュの再建では、一度痛い目にあってはおります。10万円持ち逃げ事件だね。
「昔の俺とは違う! 思い切り親孝行するぞ!」
ブランニュー宣言をするので、それは期待できます。あれで揉めたプリンセス光子が今や妻なんだし。
「そりゃいいね」
亜矢美は扇子を手にして、踊り始めます。
これは期待できるかも。どの舞台かな?
ともかく彼女はまた踊る――なんてウキウキする親孝行宣言だ。
義母生前葬で親孝行?
まぁそんな何かもありましたっけ……。
思い出すあの日のこと
一方、坂場家では。
夫婦の寝室で、イッキュウさんが語りだします。
時代を超えて浴衣でゴロゴロしていた夫婦? まぁそんな何かもありましたっけ……。いや、本作は作劇上、意味があるからね。
「きみの誕生日といえば、もうすぐ8月15日……いろんなことを忘れないように、あるための日だな」
「私の誕生日は、周りにいた人のことを思い出す日」
ヒロインの名がなつであるのも。
誕生日がその日なのも。
深い意味がある。しっかり考えていると伝わってきます。
「近頃、あれから何年も経ったんだな、って思うようになってる……」
なつぞら116話 感想あらすじ視聴率(8/13)ルパンで全てが繋がった!!昨日出てきた、フーテン族のあたりからそうなんでしょうね。
本物の戦災孤児が周囲にいることを知らない子供たちはそういう格好をして、家がないと名乗る。
なつは、あの終戦の日に戻ります。
千遥と二人で、整える人もいないおかっぱ頭をして、汚れた顔を拭いていました。
本作はこのおかっぱ頭が秀逸です。
当時は当たり前の髪型ですが、その理解度で再現性が違ってきます。
・床屋に行けないから、カットが乱れて揃っていない
・シャンプーをしていないため、脂ぎっているとわかる
こうした基本的な描写が、近年のNHK大阪朝ドラでは全然できていない。
シャンプーしたばかりと丸わかりで、どうなっているのかと驚かされるばかりです。NHK東京はそうではありませんね。
そんな千遥となつのところに、咲太郎と信哉が駆けて来ました。
「おい、なつ、戦争が終わったみたいだ。日本が負けたらしい。今日は8月15日」
「おめでとう、おねえちゃん」
千遥がそう言います。
「また千遥に会いたくなっちゃった……」
そう振り返るなつ。
これも、何も知らない子供のようでいて奥深いセリフでもある。
・浮浪児の子どもたちは玉音放送を聞ける立場になく、作り手も理解していて、敢えてやらない
・数日前ならば、千遥は「非国民!」とされて撲殺されかねない危険なことを言っている。姉を祝ったという言い訳が通じるとも思えない
・なつたちは、日本が負けたことに衝撃を受けていない。家庭環境が軍国教育をあまりしていなかったか(『はだしのゲン』主役一家)、あるいは、その機会が奪われていたか?
このへんも、本作の理解度が出ています。
****と比較すると非常にはっきりするのです。
・子供の米兵靴磨き
→****は遊び半分であり、本作は生きるか死ぬか
・戦争終結
→玉音放送がラジオタイマー感覚。機械の故障で聞き取れない、文語調のため理解できない。そういう人が大勢おりました。
・玉音放送をあえて避けたと推察できる
何がわかるか?ってことですが。
【NHK大阪】
点だけで覚えている。日本史の時間、教科書を読み、ラインマーカーを引いて覚えて、テスト後は忘れた。
そういった歴史認識で、雑な知識を散りばめているだけ。点と点を結んで線と面にせず、ごまかしばかりをしている。
成績はよくても、卒業後は勉強しない。人脈とノリで生きて来たタイプ。
だから、犠牲者が出た戦時中の拷問を、セクシーに描く萌え描写チャンスだと張り切る。
同じ考え方の信者を釣る。
そしてネットニュースで配信されてホクホクできる。
【NHK東京】
教科書だけじゃない。書物を読み、付箋を貼り、自分なりにノートを作り、点と点をつないで事実を理解しようとしている。
そういう人が、真面目に練り上げてドラマを作っている。
今ならタブレットとタッチペンを手放せないかな?
イッキュウさんは、千遥ではなく僕がついていると言うわけです。
まぁ、だからといって抱き寄せるテクはしないんだよ。
「ねぇ、もし子供が生まれたら。私たちの子供は、幸せになるのかな?」
ナレーターである父だって、その妻だって。
咲太郎、なつ、千遥。
きっと幸せになると思い、名付けたのでしょう。
その後、何が起こるか。
孤児になってしまうなって、想像もしなかったはず。
「なるよ、なるに決まってるだろ……」
イッキュウさんはそう言います。
でも、どうしてそれがわかるのかな?
※続きは次ページへ
昨日・今日と見ていて、確かに「咲太郎=ルパン」「亜矢美=不二子」という位置付けはピッタリくると思いました。そうなると、マダムも「クラリス」ですね。
野上さんは、解釈が分かれるでしょう。「銭形警部」という見方もあるようですが、私には「クラリスの園丁の老人」のような感じも受けます。
関係があるのかはわかりませんが、剛男が復員してきた回で、晩に剛男が「富~士子ちゃん」と呼びかけた言い方が、ルパン三世を連想させるもので妙に印象に残ってしまった記憶があります。遠~い伏線だったのかも?