ただの落書きではありませんよ
そこへ、ジョーが走って帰ってきました。
「お帰んなさい。どないしたん?」
ジョーにしては早い。
彼は仕事中に丸熊社長と照子の会話を聞いてしまったのです。
社長は、照子の口から、川原家の家訓を聞かされておりました。
今時、女に学問は必要ないなんて、ない。
しかも大阪から来はったのに?
と、驚いているのです。
「そんなこと言うわけないやん」
「ほんまに言うてたんよ! だから勉強にやる気ない。読み書きもできんのよ」
おおう、もう。これは気まずいで。
でも、この描写はほんとうに秀逸ですし、社会風刺にもなっていると思いました。
ジョーは酔っ払っていた。だからこその本音でしょう。
失言を酒のせいにすることは今でもよくあります。せやかて、そんなん何の言い訳にもならしまへん。
本音が出たんでしょ?
素面では隠しておける本音が出ただけでしょ?
笑い話にしてあるけれども、これは重要です。
社長の考える教育の範囲も、せいぜい良妻賢母枠ということは十分考えられます。
この時代ならお茶、お花、お琴あたりですね。
ジョーと同年代でありながら、娘・夕見子の北大進学を応援していた『なつぞら』の剛男。彼はなまらすごいことを再度ご確認ください。
「もう勉強せい。読み書きくらいできるように身につけえ! 何の取り柄もない」
ジョーがそう言いますと、横から宗一郎が反論しました。
「何の取り柄もないなんて!」
彼は喜美子に、ジョーに琵琶湖の絵を見せるように促します。
いくつも重ね塗りをして、反射が出るようにしている。
大人顔負けのとても上手な絵。そう宗一郎が説明しても。
「ああ……」
ジョーには通じてへん。
「僕は驚きました!」
「こんなんただの落書きや。何の腹の足しにもならへん」
あー……辛い。
ジョーは絵の話を打ち切り、照子が勉強を教えるから行って来いと促します。
「何をうつむいとんねん! いつまでうつむいとんねん」
「わかった。ほな行ってくる。ご飯までに戻るわ。行ってきまーす」
喜美子は絵を投げ出し、走り出します。
マツはどこかちょっと辛そうに絵を拾います。
宗一郎も、苦さを噛み締めるような顔です。
そこは照子様の教室(付・信作)
はい、場面は丸熊家へ。
立派な家です。庭には石灯籠もある。奥行きがあって、気合を感じる美麗な家なのです。
関西ぽさもあると言いますか。『なつぞら』の開拓者の家とはまるで違いますよね。
その立派な家に喜美子がいて、なぜか信作もいるわけです。
信作は無言ながら、自分がいる理由が理解できていない感が伝わってきて、いい味を出しております。
「さあうちと信作とで、厳しく教えたげるわ」
照子が気取った口調で部屋に入ってきます。
うーん、この圧倒的なお嬢様、高慢さ。
『なつぞら』の知性先行型軍師・夕見子とは違うプライドが伝わってきます。横溝菜帆さんの演技もすごいですね。
この高慢さの犠牲になっている、そんな信作の哀れさよ……。
そんなわけで、お嬢様の勉強が始まるでえ〜。
「まず理科の教科書から」
「じゃがいもを……」
「作るや」
「作るや」
「【や】はいらん!」
はい、この内容がじゃがいもとさつまいもの育て方であったことが、よかったようでして。
喜美子はすっかりハイテンションになっています。
「間引き? 間引きするとジャガイモ増えるん? うちジャガイモ育てるで! 時々肥やしをやったり、土を寄せたりしなさい。はーい!」
大根、じゃがいも、さつまいも!
きみちゃん、すっかり目がキラキラしております。
字を読めない悔しさ
そのまま家に帰ると、空いた庭で野菜栽培しないか、とマツに語り出す喜美子。よかったねぇ。
コメディぽくしているけれども、教育が何かということではあると思います。
先生や親から叱られたくない。よい子だと思われたい。テストで点を取る。
こういう気持ちでの勉強と。
ここで学んだことで、おいしい食べ物が得られる!
そういう気持ちでの勉強と。
やる気や魅力が全然違うと思いませんか?
喜美子の喜びは、食べ物を得られることだけではなくて、知識欲を刺激されたからかもしれない。そう思うのです。
「お水足らん」
マツがそう言うので、喜美子は汲んでくると言います。ここでマツはこう告げるのです。
「出て行ったで、草間さん」
宗一郎は、喜美子が戻る前に出て行きました。
「川原さんに声をかけてもらえなかったら、今頃まだ大阪の街をあてどなくさまよっていたと思います。本当にありがとうございました」
そう頭を下げて、去ってしまったのです。
しかもお金まで残しました。きみちゃんの紙芝居へのお礼とのこと。
マツは手紙を差し出して来ます。
「こんなん渡してくれはったけど。まだ読まれへんもんな」
「読める! 水、汲んでくる」
喜美子はそう言い、水を汲むために外に行くわけですが。
【心に栄養をいただいた】とお礼を告げる、そんな宗一郎の手紙を読むことはできないのです。
自分の名前すら、読めるのかどうか。
喜美子は悔し涙を流すのでした。
教育の重要性を噛み締める、そんなラストです。
総評:ドラマは心の栄養やで
本作は、わりとおそろしいところをあぶり出すと思って、真剣になってしまいます。
差別構造がちゃんとありますよね。
地域によるもの。
信楽の人は、大都市・大阪の人は教育や文化的にも洗練されていると思っている。
性別によるもの。
男は女より下で、学ぶ必要はない。そういう性差別もそこにはある。
これはジョーだけが飛び抜けてカスと言うことではなく、彼の年代と階層を考えればごく当たり前だと思います。
そして階層によるもの。
これやで!
思えば近年のNHK大阪は、京阪神の上流階級ばかりにスポットを当てて来ておりました。2014年以降、固定されていたほど。
『マッサン』の主人公は資産家で高学歴エリート。だからこその国際結婚です。
『あさが来た』は、朝ドラ最強枠かも。
実家は明治政府首脳部と蜜月関係の豪商。かつ、明治政府最強枠の政商・五代様と結託。ヒロインがあの五代友厚と偶然道端で会うってさ……。
作劇的にうまく処理していて、見ていたころはそこまで違和感なかったものの。冷静に思い返すとご都合主義がすごい。
『べっぴんさん』のキアリスは、普通の主婦が始めたような描写ですが。あのメンバーはエリートで、手芸の知識も実家のバックアップも、日本トップクラスでした。
そのあとは『わろてんか』にせよ、その翌年にせよ。
史実から乖離しすぎていて考察の対象にはできません。
ともかく主人公の背景を考えれば、彼らが偉くないとは思わないけれども、成功へのレールは敷かれていたとは思えるのです。
美男美女、萌えシチュエーション、恋愛描写。
そういう盛り上げ方をして、企業とタイアップしていけば、固いんでしょう。
でも、それでええのん?
あさは女子教育で可能性を広げると語っておりました。
けれども、それは所詮上位数パーセントのこと。
喜美子のような女性は、あさの視野に入っていたとは思えません。
それって、朝ドラとしてどうよ?
朝から、きみちゃんのような人にまで何かを届けてこそ、公共放送の役目でない?
文化資本に乏しい主人公が、芸術に一から目覚めて、何かを目指す――そういう物語こそ、等身大で、見る側の背中を押すことになりませんか?
文化資本は乏しい。
教育の意義もわかってへん。
そういうきみちゃんが目覚める。
そこに、NHK大阪のこのチームは、何かを見出したのでは?
こういう文化資本背景が乏しい主人公の目覚めと躍進は、NHK東京がここ数年得意としておりまして。
『半分、青い。』の鈴愛は、少女漫画を読まずに育って来たのに、才能を見出されておりました。
『なつぞら』のなつは、酪農に生きてきたのに、アニメに目覚める。
その心の友である天陽は、美術を学んでいないのに天性の才能で絵を描く。
来年もそうなりそうです。
ジョーが言うように、腹の足しにならんもんを切り捨てて、生きていくだけで充分ではあるけれども。
それをよりにもよって、ドラマの作り手が言ったら?
自らの存在意義の否定ですよ。
ドラマなんかなくても人は生きていける。
でも、それだけじゃつまらないから見るわけで。心の栄養を補給できてこそ、ドラマでしょう。
見ている人が、ドラマを通して生きることや、何かに目覚めるところまで、本作は意識しているのではないかな。
NHK東京と対立するのではなくて、補完するような描写もある。
朝ドラが東西協力して何かに挑んでいるような気がします。
文:武者震之助
絵:小久ヒロ
【参考】
スカーレット/公式サイト
ジョーがあまりに酷い父親すぎて脱落しそうです…母親も言いなり、誰も子供を守らない。前作の暖かく優しく正しい大人達が恋しいです。
1週間すぎましたが、ダメな朝ドラ兆候がありありと出ているのに、今回は武者さん好意的なんですね。意外です。大阪制作局の前二作と何がそんなに違うのか私には良くわかりません。
五代友厚公の屋敷と加島屋とは、四ツ橋筋で5.6分なので、大人になってからなら、いくらでも会う(道で見かける?)ことは、あったでしょうが、子ども時代のアレは無しですよねえ。あのドラマが決まったとき、五代さんが出てくるのを大阪人として喜びましたが、あんな関わり方にはびっくりしました。渋沢栄一みたいに、途中から、何かの相談事があって関わるみたいな設定かと思っていました。