スカーレット119話あらすじ感想(2/21)喜美子の凄みを際立たせ

『麒麟がくる』の斎藤利政とか、織田信秀とか。そういう顔しますよね。彼らは戦国大名だけに「これなら罠にかけられるぞ」だの「刺客を放て」と、その中身は物騒です。喜美子はそうじゃないから安心!

工房で八郎は、静かに中を見ています。十年以上の時が経った場所は、懐かしいけれど居場所がないのかもしれない。

そこへ喜美子がやって来る。そしてこれだ。

「おう!」

「えっ?」

「おう!」

「えっ?」

「ハチさん呼んでいい? 喜美子呼んで! 喜美子呼べ! ええやん、もう喜美子呼んで。もうっ、普通にいこうや、ハチさん、喜美子、な!」

「なんやねん、いきなり」

喜美子ぉ……なんやこの無駄な英傑感!

曹操が劉備に、

「今、天下で滅茶苦茶うつわがでかい、そういう英雄はあんたと俺しかおらんやろ!」

と、いきなり距離詰めて言ってきたような感覚あるわ。

※えっ、ほんま!?

いや、それはともかく。

喜美子の感覚だと、なんかこう、澱んでいる感じがあるらしい。重々しい。ちゃうか? えー、ほやから!

喜美子、ジョー並に語彙力低下しとる。めっちゃ動揺しとるで。

そこで八郎が、答えを出してきます。

「意識している……」

「そや! 意識しとるんやな。えっ、うちのこと意識してんの?」

意識しているなら、なくせ。意識している感じ、なくせ。そう詰め寄る喜美子。

本当に、本作はとんでもないところに突っ込んでくる。意識と無意識をおっとろしいまでに操ろうとしている感覚はある。

本作はアドリブが多いらしい。脚本が終わってもなかなかカットがかからず、回し続けて演じる側も試されていると思っていると、『あさイチ』で伊藤健太郎さんが語っておりました。

どういう策士がおんねん。恐ろしいわ!

人間の本質そのものよりも、周囲の意識、無意識のうちに出てしまう何かが、世の中を動かしている。魚が水質変われば苦しくなるように、人間だって意識で苦しくなったり、楽になったりするもの。そこに気づいたんやろなぁ。

喜美子が座ろうとすると、八郎は喜美子が怒ってはるのかとちょっとびっくりしている。

喜美子は堅苦しいことはやめて、もう何年も前のことを引きずるのはやめようと言う。

照子、信作、小池ちゃんとのすき焼きパーティでも、なんだかうちらは気遣われていた。

武志かてそうや。気まずいやん! ほやからな、普通にしよ。そう言われる。

ここで八郎は「普通ってどういう……」と、これまた真理を突くようなことを問いかける。

なんやこの哲学問答はー!!

何気ないようで、そもそも【普通】ってなんやねん。そういうことはありますわな。喜美子も、八郎も【普通】ではない言動だらけの二人です。

それこそ【普通】なら、もっとドキドキ、二人きりで同室にいて、そうあれや……ほっこりきゅんきゅんしたらええやん!

しかし彼らには、彼らなりの【普通】の定義がある。ここで喜美子は結論を出します。

「ハチさん、喜美子や!」

ハチさんはまずは名前から。そういう性格やったな。めんどくせえ。喜美子とぎこちなく呼ぶと、喜美子が「なんかちゃう」と演技指導。八郎、ますます困惑する。

その上で喜美子は、もうなーんもないアピールをする。なんともないと言いながら、手を触る。

しかも、ハグまでする。

「おう、ハチさん久しぶり!」

信作との再会でハグまでしなかったのは、ここまでとっておいたからかな。

喜美子は垣根を越えて来る――信作はそう言いました。八郎との間の垣根を越え、離れていってまた再会したら、新たな垣根を越えるようです。

この瞬間の二人の顔は、真っ赤な皿を焼いた頃とも、焼かれた頃とも違う。

別の何かがそこにはあるのです。

天才の凄み

フカ先生の前任者はどっしりと座っていた。弟子に筆を差し出されてチョイチョイと絵付けして、「流石や!」と尊敬されておりました。

ジョージ富士川。フカ先生。八郎。そして喜美子と見ていくと、巨匠を作るのは本人だけではなく、周囲だということもよくわかります。

誰もが違う。

喜美子はジョージ富士川めいた仏徳はないし、フカ先生の「ええよぉ」でもない。喜美子は本作で出てきた「天才」の中でも一番おそろしいところはあると思えてきました。

喜美子が穴窯のことを、あけっぴろげに教えるところに怖さの頂点を見た気がするんですよね。あの弟子をなんで今さら出してきたかって、そこは【喜美子の恐ろしさ、凄みを際立たせるため】のような気がするのです。

あれはもうええと突っ込まれますが、比較としてわかりやすいので、昨年の天才発明家(※あくまで作中設定では)と喜美子を比べてみましょう。

あの発明家は、特許と発明に目をギラつかせていた。

自分が苦労して発明したものを、他社が真似するとなると激怒。暴力的な恫喝と、政治権力による独占を言いだし、しかもそれが美化されるという、ようわからん流れに突っ込んでいきました。

あのモデル企業の企業体質もどうかと思ったのですけれども、ドラマ内の描写でも、あの発明は俺のものだとやたらとギラつく態度からは、まるで天才性が感じられなくてつらいものがありました。

その答え合わせを喜美子がしたようだ。

ぶれない自分ならではの本質と創作があれば、そういうことは言い出さないだろうな。そう思える肩の力の抜け方です。

無意識と意識の間で

じゃあ武志は?
そんな母の偉大さを理解できない?

そういうことでもない。
穴窯が離婚の原因になったと幼心に感じていた。大事な何かを犠牲にしてまで、手に入れた大事な穴窯。それを誰かに見せる、譲ってしまうということは、武志には耐えられないことだとは思うのです。

武志はわからない。
どうしてこんなにつらいのか、不安なのか、うれしいのか、ぎくしゃくしてしまうのか。三人で食事をするという夢見てきた機会があるのに、信作叔父さんと百合子叔母さんに電話したくなるのかも、わからない。

三者三様で、何か無意識と意識の間で苦しんでいるようにも思える。

喜美子は、八郎を思う気持ちと、別れてしまったことへの葛藤がある。認めると、自分の弱さと向き合うようでいやだ。

八郎は、あのとき喜美子の覚悟と才能を認められれば。素直に認めたうえで、側にいると世間の目を気にしすぎなければ。そういう後悔はあるけれども、やっぱり認められない。

武志は、あの子どものころのように、両親の仲を喜んで転げ回ればいいのに、それがもう大人だからできない。父の前で泣くときだって、大人なのにと言い訳しながら泣いてしまう。

心の底では、三人とも大事に思う気持ちはあるのに、どこかずれてしまった三人。

これが見る側からしても圧倒的に厄介ではあるのです。

なんでや!

もっとバーンと割れるように不倫しろや。三津を悪どい女にせい。エロエロ突っ走れ。破綻しろ。

そうでないってなんやねん!

イライラしてしまうのは、私たちも無意識と意識の間で悩んでいるからかもしれません。

誰もがみんな、ジョーのようにちゃぶ台返ししたら楽かもしれんけど。そうはできない。

なんだかすごいところを、本作は探りに来ているようです。

『エール』公式サイトできたべ!

はい、本作の余韻はまだまだどっぷり続きそうですが、そこは朝ドラの宿命です。

『エール』公式サイトができました。

『なつぞら』で声優起用に目覚めたNHK東京。語りに津田健次郎氏を起用だそうです。

個人的な感慨ですけれども、こんな爽やかな窪田正孝さんがあのインパールに向かうのかと思うと。どうしたらいいのがわがんねな……。慰問団だからそっだに危なくはねえけんじょも。

※こういう戦地で……

なんかオリンピックイヤーだと爽やかな作りですが、なんで彼をテーマにしたか理解できないほど地雷原じみた人物ではある。公式サイトを見る限りでは、あきらかにおかしなところはない。

けれども、題材そのものが難しい。

NHKが死地に追いやりかけ、戦意高揚に利用したわけで、どう転がってもある意味燃えるテーマです。

これはもう、NHKの正気を疑いますよね。

※これの作曲者だ

これはなじょしたらよかんべ。

とりあえず、酪王牛乳カフェオレでも飲むか……。

※うめぇ……

文:武者震之助
絵:小久ヒロ

【参考】
スカーレット/公式サイト

 

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