女の子に明るい未来を
茜は女児を出産しました。
名前は「明子」と書いてメイコ。
父の下山は、こう来ました。
「メイメイメイコ!(命名明子)!」
「それがやりたかっただけですか?」
と、なつがちくり。
なつは結構、パンチを放つんです。
『半分、青い。』の鈴愛より、攻撃力が強いと思います。
「頭脳明晰、風光明媚!」
そう説明されます。
明るい未来も欲しいところ。あの映画『未来を花束にして』でも、ヒロインは娘に明るい未来を送らせたいと思っていましたっけ。
「ほんとうにかわいい……」
なつは赤ん坊を覗き込みます。
ここで新婚で夫と仲が良いにもかかわらず、自分も欲しいと言わないところがポイントでしょうか。
カメラワークもシブいな。
赤ん坊と動物は、話題のコンテンツじゃないですか。
前作****では名場面集一位が、赤ん坊でしたっけ。印象に残るセリフや展開がないと、そうなるんですよ。あのチームの演技論がスカスカだと、きっちり証明されてしまいました。
なつの貧血、そして……
そしてひと月が経ち、秋が深まる頃。
なつは体調不良となっております。
堀内と荒井が心配する中、荒井は風邪、堀内は過労を疑います。
荒井は、
「遅れてまうねんで!」
と、堀内の過労疑惑すら否定。うーん……。
なつは、座り込んでしまいます。貧血のリアルですね。
倒れずにまず座り込むか、よりかかるか、何かにつかまると。生物は頭部や内臓をかばいますから、頭を打つような倒れ方はなかなかしないものです。
華奢な美少女が、ふら〜っと倒れる。
そういうテンプレ描写がありますが、あれはあまりにリアリティがない。
ついでに言えば、「ウッ!」と吐き気がこみあげるとか。酸っぱいものが食べたくなるとか。そういうあの描写も手垢のついたテンプレです。本作はそういうことはやらないと。
これはこの季節、大事な話でもあるんですが。フィクションのリアルではない描写が刷り込まれて、それが取り返しのつかない事態になることもある。
溺れる時、漫画のようにバシャバシャと叫びながらということは、そうはない。
静かに黙って、ゆっくり沈むこともあるんです。
「嫌だったら叫ぶでしょ!」
というのも、嘘なんだな。
そんなリアルな貧血のあと、なつは病院待合室の椅子で、何かを考え込んでいるのでした。
なつが帰宅すると、エプロン姿のイッキュウさんが迎えます。
また指を切りつつ、食事を作っていたそうです。
「慣れたから!」
「指を切ることに慣れないで」
そのやりとりのあと、イッキュウさんは心配します。
「顔色が悪い……」
「ちょっといい?」
椅子に座り、夫妻は向き合います。
なつは仕事中、貧血を起こして倒れたと言います。
そのあと医者に行ったら……。
「できてた。赤ちゃん。赤ちゃんが、できてた」
「よかったじゃないか」
「本当に? イッキュウさんはうれしいの?」
「うれしいよ……きみはうれしくないのか?」
「うれしいよ……」
素直に喜ぶイッキュウさん。一方で、そうできないのがなつです。
子供ができる、いっしょにがんばろう!
うれしくないわけじゃない。
お医者さんに言われた瞬間は、信じられないくらい嬉しい気持ちになった。
だけど、これからどうするのか?
仕事を辞めるわけにはいかない。
「やめたくないよ……」
金銭的な話だけでもないんですよね。
夢も。同僚も。技術も。
辞めるということは、それを捨てることでもある。
でも、イッキュウさんは迷わないんだ。
「できた以上は、産まないという選択肢はないだろ、僕たちに。だったら、そんなことはとても小さなことだ。きみが、母親になるってことに比べたら」
「やっぱり仕事より大事ってこと?」
「そうじゃない。産むと覚悟を決めて、仕事のことは考えればいいと思っているんだ、一緒に考えよう」
覚悟の問題にしおった。
泰樹も求めた、覚悟だ!
「一緒に?」
「幸い僕は今家で働いているわけだし、君を支えることができると思うんだ。契約になっても、仕事を好きなだけ続ければいい。会社が仕事を認めれば、他の女性も働きやすくなる。子供を育てながら兄メーターを続ければ、それも戦いになる。きみが、その道を続けるんだ。そういう開拓精神が、きみにはあるはずだ。いっしょにがんばろう!」
「じゃあ、喜んでいいのね?」
「当たり前だ!」
「ありがとう」
「こちらこそ」
おめでとう、なつよ、笑って母になれ――。
父が万感の思いでそう告げる、そんな出発点でした。
ドクン……鼓動がかすかに聞こえて来ます。
この流れをふまえて、当時の【普通の】男性としてはありえないという意見もあるでしょう。【普通】じゃなくて、彼個人がどうなのか。そこが問題の本質なのです。
【良妻賢母】ってなあに?
まずここで、堀内の【良妻賢母】のついてでも。
これも重要なんです。
明治時代まで、男子の教育は男性、女子は女性が担っておりました。
織田信長がうつけであることの責任を、ナゼ平手政秀が感じて切腹したとされるのか?
男性が教育をしていたから。
母親のせいじゃない。母の育児は、男児ならば幼児期のみ。今の小学校以上ともなれば、男の責任でした。
「男女七歳にして席を同じゅうせず」
という教えが、東アジアの儒教文化圏には根付いていたのです。
それがどこで転換したのか?
新島八重、広岡浅子あたりです。
明治以降、西洋由来の母親に育児を任せることを、日本は取り入れました。
初期の女子教育は【良妻賢母】、母として強い兵士となる我が子を育ててこそ【富国強兵】だと思われていたのです。
『あさが来た』では丸めちゃったけど……。
それに対して、反論したのが今度お札になる、津田梅子でした。
思想系統的に、本作の夕見子は津田梅子の流れをくむと感じているのですが。
その双子姉妹であるなつにもつながるのでしょう。
【開拓】とはッ!【失敗】とはッ!
どうしても思い出す、あのこと。
衝撃がまだ続く、京都アニメーションのこと。
あの会社は、なつのような女性アニメーター活躍の場として、作られたものでした。
福利厚生が充実していて、女子社員も多い傾向がありました。
それだけに、セキュリティホールをつかれたあの事件には、言葉もありません……犠牲者の皆様のご冥福をお祈りしますとともに、今後の歩みを応援させていただきます。
本作の凄みは、アニメ業界の流れをいくつも組み合わせていることだと思います。
神っち&イッキュウさんコンビの運動と、京都アニメーションの設立を、複合させてあったかもしれない未来を紡いでいくような。そんな世界を感じます。
OPは、アニメと現実が融合していく。
十勝と東京。
過去と現実。
そういう組み合わせが、新世界を作る。
そういう深さを感じます。
そこまで朝ドラフォーマットでやっていいのか?
そうなりかねない話ではあるんですけど。
持ち出すのも何ですが、本作って『半分、青い。』で叩かれた要素を、繰り返して強くして繰り出すところを感じるんです。
あのドラマも、男性が食事や弁当を作り、育児をし、我が子に向き合っていましたっけ。
鈴愛の、反論する泣き寝入り否定の態度とか。
律の、得体の知れなさとか。
年上女性との恋愛とか。
また繰り返してきたよ!
ついでに前作****教団の真逆を突っ走る傾向もある。
妊娠した時の、教団員と信徒ムーブを思い出そう。
今更言うなってところだけど、彼らには憐れみもないわけじゃない。
怖いんですよね。こういう改革が。
ついていけなくなったと、認めたくないし、怖いんだ。
なつをサイボーグだとか、男ウケするめんこさをさせているだけとか、おっさん受けする媚び媚びキャラとか。
あるいは亜矢美が、トレンディドラマと演技が変わらないとか。
そういう叩きネットニュースを見ましたけど、それは演技する側ではなく、批評する側の問題では?
下から二番目になりたい人って、いつでもいる。
一番下の存在を叩けるだけでも満足。変革して一番嫌われる側になるよりも、生きることを許される、そういう側で安住したい心理です。
前作****の時は不思議だった。
他のドラマの時以上に、私は*ちゃんと同じ、夫は**さぁんと同じだと、アピールする人があまりに多かった……。
そういう最大公約数と同じだと主張すれば、少なくとも最下層に落ちるリスクは減らせるんだ。
ドラマとは怪盗であり、鑑賞や批評する側は、探偵。
北村紗衣氏『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』で読んだ概念ですが、なるほど納得しました。
慎重にそこは見ていかないと。見落とすかもしれない。
もしも的外れなことをここで指摘するのならば、ただ見るだけで考えていないってことになる。
いつまでそれが続けられるか。
先のことなんてわかりませんけどね。
だからこそ、考えていきたい。
本作の言いたい【開拓】のことは。
そのヒントはあった。『スティール・ボール・ラン』、スティーブン・スティールの言葉に。
失敗というのは……いいかよく聞けッ!
真の「失敗」とはッ!
開拓の心を忘れ!
困難に挑戦する事に無縁のところにいる者たちの事を言うのだッ!
文:武者震之助
絵:小久ヒロ
子供ができたことを素直に喜ばせてあげられなかったのが切ないです。
なつがこれまで努力してきたこととか、アニメーターになるために十勝に置いてきたこととか、つぶさに観てきた一視聴者としては、なつが悩むのはよく分かります。
なつを通じて、世の中の女性たちが悩んできたことが体感できました。
やはり、仕事と育児を天秤にかけなければいけないような社会は間違っていますね。
今の武者氏にとっての作品の評価基準は、ジェンダー論が全てであるかのよう。
もちろん『なつぞら』は、それが作品の大きな柱ですから、論評の柱もジェンダー論になるのはごく自然。しかし他の作品まで、ジェンダー論を基準にその作品の優劣自体まで決めてしまうようなことになると、偏りが過ぎて違和感が大きいものになります(※個人の見解です)。
この『なつぞら』でも、新宿編の屋外ロケなどの致命的な不備箇所はありましたが、コメントで指摘されることはあっても、レビューでは不問。
でもそれは、『なつぞら』の主題があくまで「女性アニメーターの生きざま」であって、「新宿の街」は主題ではないから。だから、レビューとしておかしなことではない。
それに対して、
「日本のオリンピック参加史」を主題とする『いだてん』について、肝心の主題の描写の巧拙ではなく、ジェンダーについての扱い方ばかりを基準に評価するようになり、挙げ句の果てには酷評に…というのはあまりにバランスがおかしい(※個人の見解です。また6月中旬以降のレビュー記述はフォローしていません)。
『なつぞら』が始まってから、武者氏の評価基準が『なつぞら』中心に偏ってしまい、他の評価軸を持てなくなってしまった。そういう感を強く受けているところです(※個人の見解です)。
『なつぞら』新宿編の屋外ロケの不備がコメントで指摘されるようになると、それをこじつけて「だから新宿編は手抜きばかり」と無理な決めつけをするおかしなコメント投稿がなされたことがありましたが、
『いだてん』について、「ジェンダーの視点が弱いから作品全体がダメ」と決めつけてしまうのも、同じような不合理を感じてしまう(※個人の見解です)。
ジェンダーにせよ、移民政策にせよ、もし『いだてん』のレビューで、作品主題について分析しつつ、それらについて「作中では表現されていないが、この点も忘れてはならない」などと指摘する程度にとどめていれば、不合理なものにはならなかったのでは。作品を楽しみたい人も読めるものになったのではないか。そう思います(※個人の見解です)。
また、そうは言っても、あくまで武者氏の感じたことを書くものである以上は、感じ方が違うのは仕方がない。だから、自分と考えが違ってきてしまって以降は、『いだてん』レビューは読まないようにしていた。『なつぞら』自体も本レビューも楽しみですから、「住み分ける」ために。なのに、『なつぞら』レビューにまでわざわざ『いだてん』批判を時々書かれる。それはちょっとあんまりだった(それで、『いだてん』レビューは読んでないのに大体の様子は想像もついたほど)。
『なつぞら』についての武者氏の評価は適切だし実に面白い。ただ、その評価軸だけで他の作品に臨むのはちょっと…と感じます。
最後のイッキュウさんとの対話の中で出た、「たとえ契約でも・・」という言葉が気になりました。それだと、茜さんに社長から提示された話を肯定してるだけで、「革命」ってことになるのかな、と。契約の話は、一方的に押しつけられたからダメ(本人が選ぶならいい)、ということなのですかね?であれば神っちがあそこまで憤慨するのもよくわからない気がします。