「陶芸家になりたいうのがあかんのですか?」
諦めてくれ。
ジョーから、そう頭を下げられると、八郎はしおらしくこう返します。
「わかりました。きちんと定職について、合間の時間に陶芸をやらせていただきます。丸熊陶業を辞めるようなことはしません。はい、約束します」
ジョーは満足ではある。
「いやー、これはうれしいわほんまに」
うーん、これもなぁ……。将来の婿が屈服するのがうれしいの? ジョーは愛がある男だから、娘が心配っていうのもわかるけどさ。
陶芸やめてください。やめます。で、終わんのか?
いかんでしょ。
二人はもう夢を見ている
すると納得できない喜美子が反論し始めました。
「もう遅いわ!」
何がや。
そう聞かれ喜美子は返します。
「うちも、もう見てるで、十代田さんと夢」
喜美子は語り出すのです。
お父さんの許しもろたら映画を見る。美術館行ったり、絵画展見たり。
陶芸家になるための勉強やで。感性磨くんや。
めおと貯金も始めた。
電気窯買おうと話していた。陶芸家になって、一人立ちしよういう話していた。
そういう十代田さんの夢を、うちはもう見ている!
そう宣言した。もう手遅れや。
始まっとるで。そう言い切るのです。
八郎は控えめに、ジョーに理解を示します。
食べていけるようになるには大変。苦労かけたくないお父さんの言うこともわかる。
趣味でやっていくんでもええよ。そういう反応をしてしまうのです。
「ええことないよ! 自分だけの色出したい言うてたやん! 陶芸展に出品して賞取りたい言うてたやん! お父ちゃん、ものづくりはそんな甘いもんちゃうわ。お父ちゃんが仕事終わりに酒飲むのとちゃうねん! 片手間でできるなら皆陶芸家になる、絵付け師になる! お父ちゃんが仕事終わりに酒飲むのとちゃうねん!」
おっ、喜美子、それは禁句や。案の定、こうだ。
「なにをー!」
ここでちゃぶ台返しをしようとするジョーを、二人で止めます。
ちゃぶ台返しが多すぎるなんて意見もありましたが、激昂、バチギレを動きで見せる秀逸なテクニックだと思いますよ。
優しすぎてもあかん
ここまで見ていて、ちょっと気になりませんか?
朝ドラあるあると言いましょうか……。
夢を諦める――それが後ろ向きならば叩かれるんですよ。
逆に、周囲の助けで夢を叶えても、なんか言われる時は言われる。
鈴愛とか、なつとか。
その一方で『あさが来た』クラスの挫折がほぼないハイクラスだと、なんだか静かなもんで。
「この程度で諦めると言い出す八郎は軟弱! 昨年の**さぁんは何度挫けても夢を見続けたから素晴らしかった!」
とか、そういう意見はあるかもしれん。
八郎は軟弱ではなく、むしろ頑固ではあるのです。
ただ、ここでの彼は極度に受動的になる部分が出てしまった。
喜美子のセリフで、それがわかります。
「優しいで? お父ちゃんが思てる以上に、このひと優しいんや。お父ちゃんがそんなこと言うたら、わかりました言うに決まってるやん!」
喜美子は、そういう騙されちゃいそうな、流されちゃいそうな……そんな彼を止めることができる。
やっぱり八郎には喜美子が必要なんだと思います。ここまで理解しているから。
もしも喜美子が、
「そこまでして私と結婚したいんやな! 陶芸より私を選ぶなんて素晴らしい愛やわぁ!!」
ってなったら、あかん。
そしてこれ、喜美子が女だからひどいってわかるでしょう?
でも男女逆にしてみましょうか。
結婚相手に、趣味や仕事やいきがいを捨てさせ、【それこそが愛だ!】という誤解がないと言い切れますか?
喜美子は陶芸を捨てさせたらあかんという気持ちが湧いてきて、感極まって泣き出してしまいます。
「やめへんよ? やめへんて。信楽の土好きやし。ものづくり好きやし。自分だけの色出したい気持ちも変わらへん」
八郎はそう言い、ハンカチを取り出して不器用な手つきで喜美子に渡します。
喜美子は即座に投げ返す。おいっ!
「投げるかなぁ、ここで」
八郎はそう返します。
喜美子がこういうことをしても、怒りません。
「僕が気遣ったハンカチを投げる、ガサツな女やなぁ!」とはならない。
ジョーは理詰めで反論できないのか。
喜美子の涙にやられたのか。
やけくその、投げ出す気、満々でして。
「片手間でできへんいうんやったらやめたらええねん。丸熊陶業辞めて陶芸家になったらええ。仕事帰りに酒飲む俺にわからん。わからんこと口出して悪かったわ。夢見たらええ、もう終わり!」
おいおい、喜美子の涙に負けたのバレとるで。
支えるのではなくて、並んで一緒に歩こう
「ほなそうします! うちが支えます!」
喜美子がそう言い切ると、ジョーは困惑します。
「支える意味わかっとんのか? 自分中心で喋りっぱなしで、一歩二歩下がってついていけんのか?」
おっ、今日もカスっぷりに安定感あるで。
ジョーのすごいところは、そういう古臭い理想の弊害まで出ているところなんですよね。マツはそういう古風なええ女房ですよ。でも、それでええんか? いかんでしょ。
八郎は一緒に並んで歩ければええと反論します。
ところが、ジョーからすると、むしろ喜美子がしゃしゃり出てきているということになる。
負けてないのが八郎で、しゃしゃり出てくる、そういう時があってもいいと言い切ります。
これはもう、口論のようでそうですらない。
ジョーは、男尊女卑が凝り固まってしまっている。
女の言うことに従うことが「女房の尻に敷かれる」という状態で、認められません。
いくら女が正しいことを言っとろうが、それを許したら男の沽券に関わるんや。そういう女は黙らせなあかん!
そういう事例が、TIME誌が選ぶ「今年の人」がらみでもさんざんありますよね。
男なり、成人なりの沽券をぶっ壊された人が、どんだけ幼稚でアホで無茶苦茶なことを言ってちゃぶ台返ししているか。
それを可視化する本作は半端ないで!
一方で、八郎はそもそも、そういう視点がないのです。
男だからとか。
女だからとか。
そんなことは関係ない。
できる人が食事を作り、家事をすればええやん――そういう概念であり、世間はそういうものだからと従う規範など八郎にはありません。
『なつぞら』でも、そういう人は結構出てきましたね。
『半分、青い。』の「スパロウリズム」も、鈴愛と律が一緒に並ぶコンビでした。
「もらい感情でトゥラッタッタ♪」は時代遅れだと、朝ドラチームは東西ともに気づいたんですよ。
ここで、マツがジョーに訴えます。
「駆け落ち同然で飛び出したときな。昔の話しても」
ジョーとマツの関係性も見えるんですよね。
微笑ましいけれども、マツがジョーに訴える時は、言葉は悪いけれども犬が散歩をねだるような雰囲気はある。幼女のように澄んだ目で、じっと見つめます。
富田靖子さんはキッパリした演技ができる。そういう演出と演技をしているとわかります。
そんなマツが語ります。
駆け落ち同然で飛びだして、橋の下で雨をしのいで。
ワクワクしたで。この先どんなことが待ってるんやろ。
そう思ってワクワクした。
「うちはいっぺんも、あんたとの人生失敗や思たことないで」
百合子も、ここで立ち上がります。
「あの……気色悪い言うてごめんなさい、ごめんなさい!」
よかったな。
昨日で怒ってちゃぶ台返し挫折したら、これは見られんかったで。
でも、引っかかるちゅうか。
マツは後悔していなくても、喜美子の人生を見てきたこちら側としては、その夫婦愛の影で娘がどないなったと思てんねん……と突っ込んでしまうところではある。
ラブラブだの、ほっこりきゅんきゅんだの。そういうことでごまかさないもんはあるからな。
なんだかおさまりそうにはなっている。
ここで、空気に流されごまかさないで、自分の言いたいことを頑固に貫くのが八郎なのだ。
「もうええ、もうええ」とめんどくさそうなジョーにつっかかります。
金の話でどや!
八郎はめんどくさいで。
沼の民の皆さんにも言っておきますが、それは悪くないけど、八郎は激烈にめんどくさいで?
大事なのは、そこも含めて愛でていかなアカンっちゅうことや。
「僕は終わってません! 聞いてください!」
言葉を紡ごうとする八郎をマツが助けます。
あのお願い目線を出されると、ジョーも座るしかありません。
八郎には、陶芸展で四年前入選した山田という八年上の先輩がいます。
山田龍之介いう名前で陶芸家として活躍中です。信楽ではなく、加賀の人です。
八郎は、喜美子の問いに答えつつ、ちゃぶ台の上の小さな湯呑みを示します。
こういう小さな湯呑みを作って出すと、一個五万円で売れる。
大卒の初任給(1万3千円)の二倍、三倍……それ以上の値段で売れる。
ゴクリ……。
途端にジョーの目の色が変わります。
そして喜美子とこんなやりとりがある。
「この湯呑みが?」
「それとはちゃうで!」
「わかってるわ!」
ほんまに、ええ仕事や。
昨年の放送事故の時、このドラマの作り手は物価の推移すら調べない、モデル公式うどん玉の値段だけでゴリ押しするつもりかと突っ込んだもんですが、それも、もう訣別や!
八郎は説明を続けます。
なんで一個五万で売れるか?
それだけ心が動いたから。と、お金に換算して説明します。
八郎は賢い。
『なつぞら』の夕見子やイッキュウさんほどわかりやすくないけれども、あの混沌としたジョーとの会話で気がつくことがあったんでしょう。
お父ちゃんは、稼げないことが惨めだった。
家もオンボロや。
そういうことをふまえれば、彼はお金で換算すると効果的やで。
ちょっとしたセリフに、その人物の価値観は出るものです。
八郎は何気ない会話からそこを推理できた。ジョーはどうせカスやから金銭で換算したろ! という見くだしともちゃう。
ちゃんと金銭で換算すればわかりやすいという旨のことを言っている。
昨年の放送事故では、ネトゲ廃人画伯への態度で、作り手やそれを称賛する側の価値観が見えてしまってつらいものがあった。
あのドラマでは、モデルの絵が若い美人になるのかばかりを気にする。人生経験や内面を絵で示されるかどうかは気にしない。
画伯の絵に高値がついたことばかりを褒める。
絵そのものを見てどう感じるか――そこはろくに出てこない。
画伯のデザインに、忖度したい相手へのメッセージが込められるか。そこばっかり気にする。
言わば、感性がスカスカやったんです。
『半分、青い。』の秋風塾、『なつぞら』のアニメと天陽の絵。このあたりとの落差が厳しかった。
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