武志は真奈を送り、部屋に戻ってきました。
すると喜美子が、ファミコンを見つけていじっております。この頃は、アンテナ端子をつないだりして接続がちょっとややこしいんですよね。
「これゲームやろ。お母ちゃん知ってんで!」
浮世離れしている喜美子ですが、陶芸教室以来、世間の流行を知るようになったらしい。
知ってんで! という戸田恵梨香さんの演技は、ほんま半端ないな。子役時代の興味津々なきみちゃんの演技をちゃんと引き継いでいて、童心を見せるおばちゃんを演じ切っとる。しかし……。
「テレビないとできひん」
そう言われてちょっと残念そう。
喜美子は知勇兼備なのに、こういうふうに抜けとるところが絶妙におもしろい。留守番電話を女だと勘違いしたり、定期的にやらかすんだよな。
お父ちゃんとお母ちゃんには、時間が必要だった
喜美子は、陶芸家として武志に最近の様子を聞きます。
大皿に雪を降らせた。入選する、しないは、おまけみたいなもん。そう満足げに語る。
本作のおっとろしいところはたくさんあるのですが、こういうクリエイターの業も生々しいんですね。
喜美子が「次世代展」で落選しても、本人が一番淡々としているように見えたり。
【普通】はああして電話を受けたら入選やろ! そう思いませんでした?
でも【普通】ってそもそも何? 何を期待してたん? そう投げかけられるようなところはある。
とはいえ、彼らもこの社会で生きるためには【普通】との迎合が必要なわけでして。
佐久間や柴田などの美術商から賞を取れとプレッシャーをかけられ続け、スポイルされる八郎もいれば、喜美子のように、住田や陶芸教室を通して世間とつながる、そういう世界もある。
これをテレビの作り手、しかも朝ドラというNHK看板が言い切るところに、半端ない力を感じるのです。
インディーズ映画の監督が言っていれば「せやな!」で終わりますけどね。朝ドラだもん。誰もがおいしく食べられる、そういう旅館の朝食、社員食堂みたいなコンテンツ枠ですからね。
武志は、賞をとって世の中に出たいという気持ちはない。とはいえ、八郎が新人賞を取ったのは、今の彼と同じ年のころ。武志が生まれる前のことです。
お父ちゃんの作品はお母ちゃんがいたからできた――。
そう感慨深げに語る武志。それはそうでした。喜美子と結婚するために作り上げたものです。
武志は知らないだろうけど、見ていたこちらはわかる。
作品入賞を結婚の条件にするとジョーに交渉したのは、喜美子であったこと。垣根を越えて行ったのも、喜美子だということ。側におっただけだと語る喜美子。謙遜なのか、自覚がないのか? 喜美子の力は凄まじいものがあります。
内助の功とか、夫唱婦随とか。喜美子はできません。そうしないことが悪いと言われたところで、本人だって悩ましいところではあるでしょう。
彼女のような女性がいることは認識しなければいけないし、彼女のようになれない女性が情けないわけでもない。喜美子は喜美子。女性である以前に、そういうものです。
武志はわかっていて、まとめてくれます。
お父ちゃんの作品は、お母ちゃんがいたからできた。
お母ちゃんの穴窯は、一人でできた。お父ちゃんは陶芸家になったお母ちゃんに負けた。信楽から逃げて行ったという人もいると。
これも難しい。
芸術家でも、妻あってのものだとモデルにして描き続ける人もいる。次から次へと妻を取り替える人もいる。一生独身で仙人のように生きる人もいる。そこは人それぞれです。
昨年、異性との性的関心および興奮がないと、芸術家はダメだと言い切るセクハラ画家がおりました。あんなもんは性犯罪者の偏見と言い訳だから、信じたらあかん!
本作のヒロイン夫妻離婚はいろいろと言われますけれども、個々人の感性や性格の差が噛み合わなかった結果、世間の偏見を描くためのように、私には思えます。
そして彼は振り返ります。信楽を出て、京都の美術大学で、自分とにた境遇の人々と出会ったと。
画家の息子。デザイナーの娘。親が離婚した家庭。
そして信楽を離れて世界が広がった四年間、お父ちゃんとお母ちゃんのことよう考えた、よう思うた。
今な、普通に会えるようになって良かったと思てる。万々歳や。時間のおかげや。お父ちゃんとお母ちゃんは、離れてお互いを見つめる時間が必要。別々に生きていく時間が必要やった。
そう分析します。
実はこれと似たようなことを、スピンオフの考察で私は書いておりました。
時間と距離を置くことが必要だと――。
この夫妻は、いろいろ言われます。
「なんやより戻ったんか? どっちなん?」
「離婚する理由がわからんわ!」
「こんだけ仲がええなら再婚せえや」
「八郎うざい。なんでおる?」
近くに良すぎて、わからなくなって、迷走して。見つめなおして、夫婦や男女としてはともかく、親として家族として八郎のために集まることにした。
それでええんちゃうか?
なんでもジャッジして、マウンティングして、値踏みして。自分の考える範囲外に出ると、「おかしい」「ありえない」と言いたくなる。
夫婦別姓、同性婚、職場のパンプスハイヒール強要、などなど、自分が直接関係ないようなことにでも、一言いってまう。なんでそうなるん?
自分には理解できない。個々人の自由だからしゃあないか。それで終わりにすればええのに、何か物を語らないとアホっぽく思われる――そんな強迫観念でも抱えているのかな?
どんな形だって、当人同士が納得していれば正解です。
父と母の和解を見届け、やっと陶芸家としての道を見いだした武志。たこ焼きを食べるかと言い出しつつ、こう語り始めます。
「俺な、別に焦ってないで。陶芸家として認められて食べていけるようになるまで、五年十年、30になっても別にええ」
深野先生の教えがそこにはある。近道せえへん。目標に向かってゆっくり生きていく――。
「“ええよぉ”言うてくれ」
「……早よ作って」
何気ないようで、この母子の運命を思うと悲しいセリフです。
生きるで。もっともっと生かしたる
このあと、たこ焼き器を洗う母。テーブルを拭く息子。喜美子は、意外と綺麗にしてると感心しています。母がお茶をいれようとして、コーヒーしかないから息子がいれるというあたりに、生々しさを感じます。
「なぁ、なんで来たん? なんかあったから来たんやろ。言いたいことあったんちゃうの?」
武志が切り出した。
喜美子は病院に行ったことを言う。名前を呼ばれても帰ってしもた。大崎先生が心配して、わざわざうちに来てくれた。大崎先生がいい先生でよかった。しみじみと喜美子は言います。
「……長い付き合いになるやろしなぁ」
「長い付き合いになるってどういうこと? お母ちゃんに聞いてええ?」
「お母ちゃんに聞かんで誰に聞くんや? ここ座りぃ」
喜美子は座らせます。こういうふうに親子が向き合うとき。幼いあの日が思い出されます。
靴下を繕った我が子に、容赦ないダメ出しをする前。
武志、お母ちゃんがどう思うか知ってるな。好きや、大好きや――。
「……武志の病名はな、白血病や」
武志は立ち上がり、コーヒーをいれます。
彼の顔をアップにするわけでもない。涙をこぼさせるわけでもない。叫ばない。静かな時間が流れます。
「ほうかぁ。そうやないかな思ってたんや。ちょっとな調べてん、新聞とか見て。あとどんだけ、あと何年、生きられるん? 俺の場合、どうなってく? いつまで元気でいられる? 先生、なんて言うてた?」
「三年から五年」
「それが俺の余命か」
ここで武志は、自分の気持ちを整理するように言います。
「お母ちゃん、ほんまに免許とるん? 今年の目標は百個。俺には二個しかない」
ゆっくり生きられないやん。三年か五年。今年の目標、百個考えな。
『最高の人生の見つけ方』とか。余命がタイトルに入るものとか。限られた事件で何かする、そういう話が定番になりつつありますが。
そういうことを言えるのも、贅沢ですし、それで感動するのも現実逃避という気がしてきた。
余命宣告がきっちりある医療環境。やりたいことを実現する余裕や金銭。体力。周囲の体制。相当恵まれていないといけませんし、余命も何もわからないで亡くなる人も多いわけです。
それに、わかっていたとして、武志のような若者だとすれば、それが一体何になるというのでしょう?
納得できるはずがない。そういう生々しい気持ちを、喜美子が吐き出します。
「何が三年から五年や。生きるで。もっともっと生かしたる。絶対死なさへんからな。お母ちゃんが生かしたる」
我が子の顔を両手で挟んで、そう言い切る喜美子。
それが実現可能かどうか、わかりません。けれども、母がこう言ってくれた、前向きに走っていただけでも、彼にとっては心強いはずです。
これが今週のタイトル「揺るぎない強さ」だと思った。
これからどうあれ、どう人生を終えるかではなくて、どう生きるかを描いていく作品になるのだと思う。
再婚する。回復する。親子三人で仲良く生きていく姿が見たい。それはそうですけれども、そうでない終わりを迎えるのであっても、彼らが選ぶ道のりなら見届けなくちゃ。
ハッピーエンド以外は価値がなくて、見たくないもので、いらないと言うことって、残酷だと思うのです。
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