まんぷく 11話 感想あらすじ視聴率(10/12)パクりでコクり♪キタ━━(゚∀゚)━━!!

本日も【ブケムスメプログラム】暴走

しかもこのあと、例によって【ブケムスメプログラム】暴走ですわ。

・咲は回復する
・立花が紹介した医者はヤブ医者に違いない
・咲が死ぬわけない

しまいには
・もうヤブ医者を紹介した立花とは会うんじゃない
と福子に言い出します。

うぉぉ〜〜い!
だから、このプログラムを設計した奴、誰なんだよ!
人を疑う前に、医療機関の体制とか吟味しなさいって。立花のせいにする前に、不吉な前兆を見逃していた己の失敗や不徳を自覚してこそ“武士”だろうが!

どの家臣団のお嬢さんか知らんけど、主君が織田信長だったら、長い書状付きで処断待ったナシでしょう。

まぁ、鈴がゲス極武士の娘というのは、単なる御都合主義ですもんね。
咲の死が、福子と立花の恋路に影を落とすかも――そんなワケで。

現代ものですと、人を死亡退場させるだけで、美化だの利用だの、わんさかクレームつきますが、時代モノだと、ド真ん中で同じ行為を働いても見逃されるんだよなぁ。

朝ドラにとって時代物ほど分厚い鎧って、他にありませんね。
現代モノの『純と愛』に失敗して以来、NHK大阪が頑としてこの鎧を着続ける理由が見えた気がします。その鎧のせいで、ここ数年、クオリティを下げ続けまくりで、いったい大丈夫なのでしょうか。

そんなしょうもない話を福子と鈴がちゃぶ台を挟んでしております。
そして夜分遅く、電報が届きます。

「サキキトク」

 

インフルエンザじゃねーんだぞッ!

「あんなに元気だったのに!」と鈴が喚き散らり、がおばかさん度が更に増してゆきます。

医者の話をろくに聞いていないのか!
結核がそんなホイホイと治癒できるか!
インフルエンザじゃねーんだぞッ!

ここから先は、ベタベタ病死劇場をお楽しみください。

鈴「目を開けなさい、咲!」
呼吸器を外した咲、涙ポロリ。

咲「ごめんなさい、あなた、ごめんね」
大げさなBGM、暗転する照明。

医者「ご臨終です」
福子「咲ねえちゃん! 咲ねえちゃん!」
カメラは、泣き叫ぶ家族の顔をともかくアップで撮り続けます。

もう、ベッタベタすぎて、目の前で起きていることが信じられないレベルですわ。

このあと、桜が散る中、福子と立花がすれ違います。
細かいこと続けて言わさせてもらいますけど、戦前のこの時代に、姉の死の直後に、ピンクのカーディガンってどういうことですか。

明るい福子が、珍しく紺色の服装ならば、落ち込む気持ちも出せたんでは? 桜がチラチラとしていて、明るい画面作りなのもどうかと思います。

演出や細かいところが、咲の死によってこの2人が接近して、死ぬことでデートも再開できるっていう、そういう明るさを漂わせているんです。
王道っていうよりも、陳腐を極めたいような演出ですね。

 

常に視聴者の顔色チラチラうかがって

本作は、奇妙な点があります。

「船頭多くして船山に登る」
その言葉が、頭をよぎるのです。

明確な世界観がなく、雑然と展開を決めていて、その結果迷走している感――。
作りたいものよりも、視聴者のベタなウケを重視している弊害だと思います。

「視聴者はこういうもんが見たいんやろ」
という、ベッタベタなお約束だらけなんですね。

それで古典的な王道(※この場合手抜きでお約束めいた展開ってこと)にしたいのはわかるのですが、その参照するお手本がちゃんとしていない。

つまり、戦前の価値観や時代背景を参照も検討もせず、歴史に疎くて鑑賞眼が甘い人を想定した、ベタ打ちをやらかしているってことです。
「キトク」電報なんて、まさにその証拠じゃないですか。

見ていた当初、毎朝イライラしていた『純と愛』が、最近恋しくなる理由がわかりました。
あの作品は、視聴者の受けよりも、描きたい世界を重視していたからです。

好き嫌いは別れる展開や世界観であっても、描きたいものが明確である作品は、それだけでもよいと思います。
本作みたいな、常に視聴者の顔色をチラチラとうかがって、ベタな展開しかできないよりはずっと好きです。

 

「ナレナントカ」の是非

さて、今日ちょっとつっこみたい概念があります。

それは、
「ナレナントカ」
です。

初出は『真田丸』あたりでしょうか。
この概念は、時代劇である大河ドラマはともかく、朝ドラで出すのはちょっと筋が違うのではないでしょうか。

「ナレナントカ」の原点は、「ナレ死」です。

時代物には、史実と整合性がなくとも、あまりに娯楽で繰り返し描かれたため、視聴者が待ち望むお約束があります。

一例が、牛若丸と弁慶が五条大橋で出会う場面。
あの場面は、史実と整合性が取れないとされております。

それがわかっていても出すのだとしたら、お約束を望む視聴者のためです。
中国モノですが、関羽の青龍偃月刀もこの一種ですね。

『真田丸』は、こうした視聴者アピールのお約束よりも、真田一族の興亡を描くことを重視していたため、この「ナレ死」が増えました。

織田信長がドラマチックに死ぬ「本能寺の変」を、あっさりと済ませたのも。
「関ヶ原の戦い」本戦が、超高速であったのも。

手抜きではありません。
作り手側が取捨選択をして、重要度を視聴者に合わせるのではなく、自分たちの描きたい優先順位で描いていただけです。

したがって『天地人』における長谷堂合戦カットとは比較できません。
あの場合は、原作でも尺を割いていたばかりか、この場面で使用するはずだった前田慶次、最上義光用の小道具まで存在していたのですから。
現場の混乱による苦しい処置でしょう。

さて、朝ドラの場合です。

大河と異なり、こうしたお約束がないからには、視聴者が「ナレで済ませるな!」と文句を付ける筋合いは、大河よりも希薄になります。

「私なら、あそこはもっと濃厚に描くべきだと思う!」
という意見は、作り手からすれば
「あなたとは優先順位度で気が合いません。じゃ、さようなら」
で終わらせてよい類のものです。
それでプロットが崩壊するとか、おかしくなるとか、そこまで歪んでいたら別ですが。

その点、本作は、結核の死でここまでベタベタにやるもですから、視聴者へのアピールはバッチリですね。

しかし!
ここに私は危険性を覚えるのです。

序盤に気合いを入れるべき描写は、ここなのでしょうか。
ラーメンへのあこがれのような、そういうフックや伏線の仕込みがどうにも弱いと思うのです。

中盤以降、「あんなベタなことをやるくらいなら、もっと描くべきものがあったでしょう!」となりそうな予感ばかり。

自分たちが描きたい世界観よりも、過剰に外野を意識する。
それはサービス満点というよりも、むしろ弱点となりかねません。

本作は、そういう不安で埋め尽くされています。

※レビューの過去記事は『まんぷく感想』からお選びください

U-NEXTでスグ見れる!
『まんぷく』や『半分、青い。』全話ほか多数の朝ドラ・大河作品を視聴できます。
スマホでもOKですよ。

文:武者震之助
絵:小久ヒロ

以下は、まんぷくモデル安藤百福氏の生涯です。

まんぷくモデル安藤百福の生涯96年をスッキリ解説! 日清食品の誕生物語

ラーメンの歴史は明治維新後にスタート~日本の歴史と歩み、世界の食となるまで

 

10 Comments

木曽川

何だか勘違いしておられる方が多いようですが…
このドラマが問題なのは、「ベタな展開だから」でも「時代考証が甘めだから」でもないと思いますよ。そういう朝ドラは今までいくらでもあるわけですし…。
定番展開を全て外すのも、完璧に時代考証しろというのも無理な話だと思います。

重要なのは「メインテーマであるはずの食が非常に雑に扱われている」事ではないでしょうか?

あの時代に洋服着た女子同士がカフェでランチするかのように屋台のラーメン屋へ行き、食べ物を口に含んだまま「おいしーい」とか言ったり、そもそも外食がラーメン屋しか登場しなかったり、戦時中なのに貧しくなっていく過程が無かったり、ネタにされていますが貴重な保存食である缶詰めを横流しする奴がお咎めなしだったり…
既に挙げればキリがないレベルですが、他が雑になってもそういう所「だけ」はしっかりするべきじゃないでしょうか。
ただ単に考証不足が露呈しているというだけでは済まされないです。
私は朝ドラを見て腹が立つようなことはそうそう無いですが、今回はちょっと許せないですね。

前作半分青いは、地元民としては五平餅の描写に関してはちょっと考証不足かなと感じましたが、他は気になるほどの事象は無かったですけどね…。スズメと同じ年代ですけども。

というかアレがザル考証だったら、今回はなんでしょうね…バスケのゴール?(笑)

匿名

「軍事物資の横流し」と「缶詰パクリ疑惑」.が脳内で化学反応を起こしてダメでしたw
いずれは陸軍野呂缶なんかも登場するのでしょうか

塩ラーメン好き。

べっぴんさん、にかなり
うんざりさせられたような記憶があるのですが、
BS再放送べっぴんさんを
本作と並べて視ると、
なかなかに面白いし、
演者も熱演ではないか。
脚本も、わるくないではないか。
と思ってしまいます。
本作は、稀有な俳優である
安藤サクラを
役不足にしないで、
視聴者を唸らせる瞬間を
用意してくれるだろうか。

足元

ちなみに現代もの時代ものに関係なく、物語への共感の有無で考証への視線が変わっているようで…(半青もザルなとこはザルでしたので)…だとしたらその時点で考証を突くレビューを読む意味が、「ウィキ代わり」に「ヘイトに紛れて重箱の隅に光る砂金知識のゲット」になってしまう。最近は読み流しが増えてまして…

考証への検証は、台湾補正案件に代表される「1. ヒトの物語を語る資格はあるか」と、「2.うまく受け手を騙して物語世界に入り込ませてくれる(=共感)の舞台装置」の意味があると、武者さんのレビューで感じています。

ならば共感が崩壊してる時点で考証を突いても意味がなく、なぜ共感できないか、そこがより明確になる考証レビューをぜひ読みたいです!

足元

うーん、半青は、「そういう風に繋げて解釈して欲しい!」仕掛けがミエミエで、そこがまるで素人っぽかったのでしたが、脚本家さんがまだ自分の書きたいテーマを自分で咀嚼しきってないのだろうなという感じでした。まさに「青い」段階で、それはそれで良いと思います

物語としての主人公の都合主義は、青もぷくも、どっこいどっこいに見えます。嫌いな人間が見るととコンプレックスが刺激されて「あり得ない!」となるし、好きな人には「大変なのに頑張ってるなあ、エライ!」となるだけのレベルじゃないかなあ

勿論、福ちゃん自身は悪くないけど、都合のいいオナゴの再生産やんけ!礼賛やんけ!という世の中への法螺貝は全く吹いて良いと思います。ちなみに私的には、膿が出まくりの昨今、その戦は掃討戦も近いとキラキラ考えてます。

個人レベルでみたら、福ちゃん的な幼さで世間を生き延びる方も、スズメ的な個性で生きる人も、いい悪いはなくて、それぞれ個性生かしてサバイバル、逞しいな!と思うので、本ブログの福ちゃん攻撃はマイナス補正が痛ましく感じます…いや、もちろん本質は福ちゃん攻撃ではないのですが

私が福ちゃんタイプなら心が死ぬし、福ちゃんがそんな雑音は届かないナチュラルボーン良妻賢母なら、その図太さにむしろ天晴を送りたい

ただし本当に全く武者さんが仰る通りですが、台湾補正が起こるなら何を掛けてもゼロですよね…そこを補正するなら、人の情を踏み躙りながら人の情を描くようなもので、舞台そのものが崩壊します。そんな残念な半年は過ごしたくないから、祈る気持ちで見ています

まんぷくは、台湾描写についてはまさに、本当に武者さんの仰る通りで、ここが不十分ならコンテンツとして致命的で、何を掛けてもゼロですね

羅蜜王

今作の「まんぷく」に大変違和感を覚え、
泣ける?シーンを見せられてもシラけるばかり。
ベッタベタのストーリー展開の割に、高評価を出すコメントの多さに
また、げんなり。
そこ笑うところですか?そこ泣くとこですか?と毎日感じております。

「半分、青い」は先にコメントしている方のように、
糸電話エピソードひとつ取っても、赤ん坊と糸電話を通じて
母親が話すところから、最終話に近づいて亡くなった人とでも心で繋がっているというストーリー展開。
それは祖母とお話をしたいという鈴愛の子供の頃に思った純粋な願いが、時代の流れの中で様々な通信手段が変遷していくシーンを織り交ぜながら、人との繋がりの中で少しづつ叶えられていき、亡くなった裕子とでも心で会話できるし、いつまでもそばに居れるというメッセージも込めらていると感じた。
もしそんな意味も込めて作ったのであればこの作者は凄い。初めてこの作者のドラマを見たが、朝ドラにしてはチャレンジャーだと思った。でも、深く心に残ったことは間違いない。

「まんぷく」は分かりやすい「半分、青い」は分かりにくい。
児童書と哲学書位の差はあるかもしれない。

単にファン層の違いだと思う。

ベビースターは借りを返す

ちょうど、本日の回を受けてのネット記事で「人の死を『ナレ死』で済ませずにきちんと描いたので、このドラマは素晴らしい」との趣旨の称賛意見を見かけ、引っかかっていたところでした。
「ナレ○○」があるか否かでしか、ドラマの良し悪しを語る物差しが無いのかと。この記者は。
咲姉ちゃんの死の場面自体は、役者さんの熱演の甲斐あって、不覚にもうるっとくる良いシーンだったと思います。
そのせっかくの熱演を見ておきながら「ナレ死じゃないから素晴らしい」とは、提灯記事にすらなっていない。いや、ドラマを見て書いているのかすら怪しい。
ヤ○ートップに上げられている朝ドラ関連の記事には、このような無価値なレビューが度々あり、その点こちらのレビューは、好き嫌いの偏りはあれどドラマの内容に則した意見を小気味良く述べられているので信頼しております。

咲姉ちゃんの死、忠彦さんの絵、野呂缶etc.といったここまでの出来事やアイテムが、半青でいう糸電話のようにロングパスを放つ要素となるかどうか……
それが、私がこのドラマを好きになれるかどうかの基準になるような気がしています。

momo

何を言っても無駄と思いますが、一応書いておきましょう。
半分、青いにおける糸電話は、鈴愛と律が協力して何かを作るという重要なスタンスの始まりです。
糸電話、ゾートロープ、岐阜犬、最後のそよ風の扇風機に至るまで繰り返される、2人が最も輝く時です。
想像力豊かな鈴愛が発案し、技術力に優れた律が形にする。本作を貫く大事な柱の始まりです。
そして「三途の川越しに糸電話で話す」という鈴愛の発想は、本作の死生観を表しています。
死んでしまった人は遠くに行ってしまったのではない、糸電話で話すように自分の中に響く声がある、生と死は隣り合ってる、というメッセージです。

この辺りの機微が理解できずに安直に嘲笑のタネにする人は、「半分、青い。」を鑑賞するには理解力も感受性も欠如していると見なさざるを得ません。
視聴者忖度ドラマを有難がっておられるといいと思います。

もうまんぷく

いちいち頷い読んでおります。とにかく、内容が薄っぺらい。豪華なキャストにあんな演技をさせるのは酷ですね。例えば、姉の死を報告しに行った時のヒロインの気持ちが全く推測出来ない。前後関係、仕草、表情などから読み取れず。この脚本家は国民をバカにしているのだろうか?でも、おかしなレビューやコメントがネットで見られるから、実際バカなのかもしれない。ちなみに前作の糸電話のシーンが無駄だったという人は、前作を見ていなかったか、上記の○○なのでしょう。

匿名

「半分、青い。」の無駄な糸電話シーンとかね(笑)あれも、いらなかったよね(笑)

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